「厄介な場所だなぁ」
ライナスはホログラム・スクリーンの中に映るデータを眺めている。彼と彼の指揮する艦隊はオケアノス星系へと到着していた。道中、運良く自由連邦軍とすれ違うことすらなく、マクドゥーガル中将と二〇万の兵士の待つ要塞まであと半日の距離まで接近している。
オケアノス星系。それは人類が踏破してきた星系の中で、最も移動が困難な場所の一つであった。
確認された惑星の数七二。それを取り巻く衛星の数は四〇〇以上。無数に点在する小惑星の計測は不能。各惑星、衛星の軌道が入り乱れ、重力場は常に変動している。このため、有人跳躍は危険が大きすぎ、通常エンジンでの航行を余儀なくされるのだ。
一見すると優れた地形効果を持つ星系であるため、守るに易く攻めるに難い地と勘違いされそうであるが、実際は大きく異なる。守備側ですら変化する重力場によって移動がままならず、拠点としての活用は難しいのだ。
かつて、宇宙暦三〇〇年代には、著名な海賊デュメジル一派の拠点として活用されていたが、自由連邦による宇宙暦四〇〇年の海賊大討伐によって、この地から海賊勢力は一掃されていた。それ以後、この地に新たな拠点が築かれることすらなく、宇宙暦四二一年まで時を刻むだけの星系であった。
この星系が再び脚光を浴びたのは、第二次アヌビス星系の会戦に敗れた自由連邦軍の一部が、オケアノス星系にある唯一の人工建築物、オケアノス要塞に逃れたためである。逃れた艦艇は五〇〇隻程であったが、後方で補給路を脅かされる可能性もあったために、惑星連合軍は一部の独立艦隊と大気圏内軍を派遣し、要塞の占拠に成功していた。
そして、そのままこの要塞に留まっていた二〇万の兵士を救うことが、今のライナスの任務であるはずであった。
「オケアノス星系だと？」
「はい。空軍の一個艦隊が向かっているようです。未確認ながら、惑星連合大気圏内軍のマクドゥーガル中将がいるようで……」
惑星連合軍をニューハワイ星系から撤退に追い込んだ自由連邦海兵宇宙軍は、補給と整備、休息のため星系外縁部に整然とした艦列で佇んでいた。その中の一隻の艦橋で、鋭い眼光を周囲に放つ茶色の髪の少将が、部下から報告を受けていた。
「あの、人を殴り殺すために産まれてきた精肉機械が、か」
「彼を討つことが叶えば、惑星連合に与える人的損害は計り知れません」
「あの男はいずれ、この手で絞め殺してやるつもりだったんだがな」
ブライアン・ヴォイド少将は部下の顔を睨み付けるようにして見つめている。大の大人でも震え上がらずにはいられない眼光を、清楚な印象を与える女性はしっかりと受け止めている。クラリス・ウット海兵隊少佐というのが、彼女の姓名と階級である。
「それで、俺にオケアノスに向かえと言うのか？」
「はい。ボズマン准将とともに、オケアノス星系へ進軍した空軍の支援に回れ、とのことです」
「元帥閣下の命令でなければ、空軍への支援など願い下げだが……」
ヴォイドの声からは不満とデュバル元帥への信頼とが混ざっている。感情を顕わにする直情的な性格のようで、惑星連合軍で言うところのリック・ブライトン准将と似たタイプの人間であろう。
「……これも未確認の情報ですが」
ウット少佐の声はヴォイドとは正反対に涼しげである。
「惑星連合軍はリネット・サトクリフ宇宙軍少将をオケアノス星系に派遣する模様です。それとは別に、少数の艦隊が先行しているようですが」
「サトクリフか、面白い。戦女神の長女と呼ばれる所以を見せてもらうとするか」
ウット少佐にボズマン准将との連絡を取るように命じると、ヴォイドは腕組みをして目を閉じた。
彼の夢は海兵隊総司令官となり、自由連邦に敵対する全ての者達を戦場で滅ぼすことだ。彼の前に立ちはだかる最大の強敵は惑星連合のケネス・リッカードであったのだが、軍を退き政界に入ったというニュースは自由連邦にも流れていた。リッカードと戦うことは諦めざるをえないだろう。
次なる好敵手の候補として彼の脳裏にあるのは三人。共同体のサミュエル・シングルトン少将と、共和国大統領兼総司令官のタイガ・オクムラ、そして、惑星連合のリネット・サトクリフ。そのうちの一人との舞台が今、与えられようとしていた。
目を開くと、ヴォイドは過去のデータを検索し始めた。リネット・サトクリフに関する全データを。強敵と戦うためには、入念な準備が必要なのだ。逸る気持ちを抑えきれずに、ヴォイドは立ち上がった。
ニューオレゴン星系への撤退を終えたダニー・リー元帥が娘を自室に迎えたのは、七月三〇日のことである。
「ウェストール准将をオケアノス星系へと派遣した理由をお聞かせください」
前置きすらおかず、テレサはそう言っただけで父親の目を見据えている。この日、彼の最後の来客は娘のテレサであった。
応接間の中を漂うコーヒーの微粒子は二人の嗅覚を刺激しようともがいていたが、お互いの視線を真正面からぶつけ合う親子は彼らの努力に注意を払う必要さえ見出さないでいた。
「……それは宇宙軍准将としてのものか？ それとも、私の娘としてのものか？」
「娘としての問いです」
長い時間をかけてようやく言葉を発した父親に対し、娘の返答は短く、鋭い。見事に整えられた髭に隠された口が、覚悟を決めたように開かれていく。
「ならば正直に答えよう。お前には私の正直な心を聞く権利がある。ライナス・ウェストールをオケアノス星系に先行させたのは、戦術的な理由以上に、万が一のことがあっても惜しくない人材だからだ」
「つまり、彼を戦場で失おうとも気にされない。いや、むしろ、敵に討たれることを望んでおいでなのですね」
自由連邦軍の一個艦隊がオケアノス星系へと向かっている。その報告が寄せられて以降、こうして娘に詰問される時が来るであろうことを、ダニー・リー元帥は予測していた。
「私とて最低限の道徳観は持ち合わせている。積極的に彼の死を望んでいるわけではないよ」
「消極的には、望んでいらっしゃるのですね」
テレサの言葉は彼女自身の想いを乗せて、言を左右にする父親を貫いた。娘と、ライナスに対する苛立ちが、彼の心を激昂させ、溢れ出た感情は声を荒げさせた。
「なぜ、そこまで、あの青年の身を案じる！ 三年前のあの日、我々家族がどれだけのものを失ったのか、それはお前も良く知っているだろう！？」
押し殺してきた思いが解放され、言葉に宿る。父の勢いに圧され、テレサは口を開くことができなかった。
「息子と、娘の命を犠牲にして、のうのうと生き続けるあの青年に何も出来ん！」
激情の赴くまま打ち付けられた拳は、テーブルを大きく振動させて白磁のカップを倒した。カップから零れ落ちる液体の色が、凝固した血を連想させて、テレサの心を揺さぶっている。
「……ライナスは、そんな器用な子じゃないわ。誰かを犠牲にして、笑っていられるほど強くない」
空気の震えが収まるのを待って、テレサは静かに語り始めた。それと同時に、携帯端末を起動させて、小さなホログラム・スクリーンを開く。微かな電子音とともに出現したスクリーンが安定するのを待って、テレサの口は現実を紡いでいく。
「これを見てください。ライナスの医療データです。人体には無害とはいえ、睡眠導入剤の使用量は一般兵士の平均の三倍以上に達しています。……あの子は、今も三年前の記憶に苦しんでいる。薬に頼らなければ眠れないくらい、優しい子なんです」
「優しい。そうか、優しいか。ならば、なぜ軍人を辞めぬ！ 己の手を穢し続ける優しい人間など、聞いたことがない！」
「それが、あの子の考えた贖罪の方法だからです、お父様。自分の代わりに死んでいった人達のために、彼は戦い続ける道を、戦場に立ち続けることを望んだんです」
「本人がそう言ったのか？」
「いいえ。でも、私にはわかるんです。私も似たようなものだから」
「……テレサ」
父親の声色から激しさが薄れていった。同じ心の傷を負った者として、ライナスと自分を重ね合わせる。テレサの行為が彼女の記憶を掘り起こす行為であることに、彼も気づいたのだ。
「どんなに努力しても、どんなにあがいても、私は兄さんにも、姉さんにも追いつけなかった。二人が死んで、私が二人の分も頑張らなきゃいけなくなって。失った人の分も、精一杯生きなきゃいけないって」
「もうよい」
惑星連合の重鎮としてでもなく、四家族の筆頭としてでもなく、愛しい娘を見守る父親がそこにはいる。公人としての外套を脱ぎ捨て、私人の骨格を曝け出した中年の男性が座っていた。
「一つだけ、教えてくれ、テレサ」
「何でしょうか」
「あの時、もう一人大事な人をお前は失ったはずだ。お前は、そのことを――」
「あの人のことは、もう割り切っています」
だって、あの人が本当に愛していたのは……。
胸の奥底でわだかまっていた感情は、寸でのところで理性に押さえ込まれて、言語化することはなかった。
テレサは静かに立ち上がった。これ以上、ここにいると全てを吐き出してしまいそうだったから。
「もう、戻ります。私以上にライナスのことを案じている子がいますから。今の私は、あの子の力になりたい。大事な人を失う悲しみを味わう人間なんて、少ない方がいいに決まっていますから」
彼女の父親は項垂れていたが、そのままの姿勢で搾り出すように呟いた。
「……オケアノス星系は死地だ。航路データのある自由連邦と違い、我が軍があの地でまともな作戦行動などとれるわけがない。圧倒的な兵力があるならともかく、わずか一〇〇〇隻では逃げ切ることすらできんだろう」
「それでも、私は諦めません」
娘の決意が滲んだ声は、父親の顔を上げさせた。空調の風で揺らぐ長く美しい黒髪に吸い込まれそうになる。
「あの時、私が諦めかけたから、姉さんは……」
もう二度と、同じ過ちを繰り返さない。テレサの意思は言葉にならずとも、父親に伝わった。
「失礼いたします。閣下」
非の打ち所のない敬礼を残して、テレサは部屋を辞した。一人残されたダニー・リー元帥は、テーブルの上に広がったコーヒーの染みをだけを、ただじっと見つめていた。
「自由連邦軍約三六〇〇隻が要塞周辺宙域に到達するまで、四一時間程度と思われます」
「それはまずいですね。要塞内の兵力を収容するには、あと三〇時間は――」
「発見が遅い！ 偵察隊は何をやっていたのだ！」
オケアノス要塞の中央会議室は使い勝手のいいものではない。二〇人ほどが円になって席に着くことができる質素な丸テーブルが置いてあるだけだ。要塞と呼ばれてはいるが、元々が海賊の拠点であったため、防衛設備なども必要最小限に留められており、居住スペースもさほどではない。
その会議室で、ライナスは困難な状況に直面していた。外には迫り来る自由連邦軍、そして、内には……。
「これだから宇宙軍はたるんでいると言うのだ。大気圏内軍でこのような失態を演じてみろ。すぐさま独房に放り込んでくれる！」
オケアノス要塞に到着してからのライナスの頭痛の種、それがヴィッゴ・マクドゥーガル大気圏内軍中将である。あれは鎖につながれていない猛獣だ、と評したのはハーヴェイ・マクラクランであったが、直接本人にあって、その評が事実ではないか、と思い始めているライナスである。
「一一時間で逃げ切れるか、ベティーナ」
「難しいでしょう。短距離跳躍が使えませんし、足の遅い揚陸艦がおりますから……」
不満そうなルーカー中佐とオニール少佐の顔を盗み見て、ライナスは心の中で頭を抱えている。
マクドゥーガル中将はライナスすら眼中にないようで、実の妹であるベティーナ・マクドゥーガル大佐に対してのみ、普通に接しているのだ。他の者に語りかける時には、露骨な蔑みが感じられる。
「逃げ切れぬのならば、戦うしかないな」
マクドゥーガル中将の言葉に反応した者はいなかった。このまま沈黙しているのも悪いと考えてライナスが口を開きかけたが、それよりも早くマクドゥーガル中将が腹の底に響く重い声を放った。
「まさか、降伏しようなどと考えているやつはおるまいな！？」
虚を突かれて、ライナスは部下達の顔を見回した。辛うじて平静を保っているのはベティーナ・マクドゥーガル大佐とルーカー中佐、オニール少佐ぐらいのもので、他の戦隊指揮官達の顔色は優れない。
海兵宇宙軍の強さで怖気づいたようであった。自らの未熟さを痛感させられたようで、ライナスの心は晴れない。
三六〇〇隻が精鋭の海兵宇宙軍であるならともかく、通常の自由連邦軍であるならば、ライナスには時間を稼ぐ自信があった。リネット達が来るまでの一〇〇時間程度、それだけ稼げればいいのだ。
だが、それも統率がとれていればこその話であって、戦う前から降伏を考えているような部下を率いて時間を稼げるほど、自由連邦軍も甘くはない。
「現在の状況は極めて不利です。ここは――」
「黙れ！ 栄光ある惑星連合軍が、自由連邦如きに臆病風を吹かせるとは何事か！」
この人は騎兵の指揮官とか似合いそうだな。中世の地球に生まれていれば、一人で敵の大軍を威圧できただろうに。
弱音を吐くフェルプス大佐を一喝で黙らせたマクドゥーガル中将を見て、ライナスはそんな感想を抱いた。そして、同時に安堵した。場違いな感想を抱けるほどに、余裕がある証であったから。
「……ウェストール准将！」
「はい！」
突然名を呼ばれて、ライナスは椅子から飛び上がりかけた。声が裏返らなかったのが、不幸中の幸いだった。
「真正面から戦うぞ」
「……お言葉ですが、閣下。約四倍の敵に正面から挑むのは、自殺行為に等しいと思われますが」
とんでもないことを言い出す人だ。ライナスはそう感じるだけの余力があったが、彼の部下達にはなかったようだ。ルーカー中佐やオニール少佐は呆れ返って口が半開きになっているし、他の指揮官達の顔色は真っ青だ。副官のセムラー中尉など、今にも泡を噴いてひっくり返りそうである。
「こんな弱気な指揮官どもを連れて、時間稼ぎなどできるものか！ 中途で脱落して、自由連邦軍に寝返るのが良いところではないか！」
ライナスは反論しなかった。まったくもって、マクドゥーガル中将の言うとおりであるように思えたのだ。
敵の鋭鋒を避け、攻撃を受け流し、時間を稼ぐには、一致団結した戦力と粘り強く戦う挫けぬ心がなければならない。今、オケアノス要塞にいる戦隊指揮官達には、そのどちらも欠けているように見える。
ライナスが彼らの心を掴んでいれば話は別だが、ライナスは彼らを率いてまだ日が浅く、完全な信頼を得るには至っていなかった。
「惑星連合軍中将として命じる。自由連邦軍を迎え撃つ！ よいな！」
「一つ、条件があります」
獅子をも射殺すような視線で撫でられ、会議室に詰める第三一独立分艦隊の幹部は沈黙すると思われた。だが、その中でただ一人、ライナスはマクドゥーガル中将の視線を真っ向から受け止めて、自らの意見を述べようとしている。
「現在、オケアノス星系にいる宇宙軍で最高位は私です。宙空間戦闘における指揮権が私にあることを誓約していただきたい」
マクドゥーガル中将の顔に怒気が閃いた。獅子をも射殺すような視線は、今や、像ですら絶命させかねない危険な圧力を伴っている。
たかが准将如きが、この私に意見しようというのか。四家族の矜持と誇りが叫びへと変貌を遂げようとした。
「兄上」
決壊の寸前で怒号を堰き止めたのは、ベティーナ・マクドゥーガル大佐の短い呼びかけであった。妹の瞳に確固たる信頼があることに気がつき、彼は矛先を納めることにした。それでも、一分以上、ライナスのことを睨み付けてはいたのだが。
「勝算がおありなのですね、閣下」
マクドゥーガル中将が床を踏み鳴らしながら退席した後、ようやく落ち着いた声でルーカー中佐が言った。会議室にはライナスとその部下達だけが残っている。
「あるといえばあるけれども、うまくいくかどうかはリネット……じゃない、サトクリフ少将次第だな」
その言葉の真意を確かめることを許さず、ライナスは携帯端末を操作して部下達の端末に作戦計画書を転送し始めた。若さに似合わず用意周到な准将は、既に対応策を練っておいたのである。
「大気圏内軍の収容が終わって、揚陸艦群が出港できるのがあと……二九時間と三〇分後だ。それまでに、下準備を終わらせてください」
「ばかな！ こんな作戦、うまくいくはずがありません。閣下、このような机上の空論を元に戦うなど――」
「フェルプス大佐、それ以上皆の戦意を削ぐようなことを言うと、生きたまま真空に放り出しますよ」
真顔でそう言ってのけたのはベティーナ・マクドゥーガル大佐である。彼女の美貌の裏に、マクドゥーガル中将と同じものを感じて、フェルプス大佐は心底震え上がった。
そんな彼を励ますわけでもないだろうが、ライナスは努めて明るい声を出し、軽く拍手をして立ち上がった。
「戦いの前に無用な犠牲を出さなくて良かった。さしあたって、生きて惑星連合の土を踏みたい人は指示に従ってください」
オケアノス要塞内部が緊迫感を増している頃、戦艦《ヴェーレス九八》の艦橋も似たような空気に包まれていた。常日頃では考えられないような緊張が艦橋を支配している。
友軍が倍以上の敵軍に狙われていて、それを救いに行くのだ。ある程度の緊迫感が艦橋に詰める要員の肩に圧し掛かるのは当然である。それでも、平常心が押し潰されることはなかった。薄紅色の髪の女性がいつもと変わらぬ表情で指揮椅子に座っていたからである。
だが、今回、オペレーターや航法士官達の平常心はいとも容易く潰されてしまった。司令官の様子が尋常ならざるものであったからだ。
指揮椅子の上で両膝を抱え込み、形の良い顎を膝の上に載せ、ほぼ一日中、ホログラム・スクリーンを見つめている。その表情は数分ごとに移り変わり、不安定な心のうちが露呈してしまっていた。
司令官の様子は親しい人々の間にすぐさま広まった。テレサが戦艦《ヴェーレス九八》の艦橋を訪れたのも、そういった経緯による。
「昨日から、ずっとあの調子なのよ。オケアノス星系に関係するデータを眺めているだけで……」
プリシラがテレサにそっと耳打ちする。二人の見守る先で、リネットは指揮椅子に黙然と座っていた。どうやら、今は不安が溢れている状態のようで、泣き出す三秒手前といった顔のまま、ホログラム・スクリーンを操作している。
第八独立分艦隊はオケアノス星系まであと五〇時間の距離にいた。オケアノス星系外縁部までは長距離跳躍で接近できるのだが、そこから先は通常エンジンによる航行しか行えない。そのため、オケアノス星系の友軍との合流まで、さらに五〇時間かかるだろうと推測されていた。
「見えた」
どうにかリネットを元気付けようとテレサが話しかける言葉を選んでいると、声をかけられるべき当の本人が短い一言とともに指揮椅子から飛び降りた。余りに勢い良く降りてしまったため、バランスを崩して倒れそうになる。
「見えたって、何が見えたの？」
危ういところでリネットを支え、プリシラが当然の疑問を投げかける。それに対するリネットの返答は簡潔過ぎるものだった。
「河」
「……河？」
プリシラとテレサは不可解な思いとともに顔を見合わせた。そんな二人とは違い、それまでの悄然とした様子からは考えられないほど、リネットは自信に満ちていた。
リネットの思考回路には、ライナスの取るであろう作戦が、確かな形を持って浮かび上がっていたのである。
宇宙暦四二一年八月三日。この日、自由連邦軍はニューオレゴン星系で惑星連合軍と激戦を繰り広げている。少しでも第二次アヌビス星系の会戦で受けた屈辱を晴らそうとする自由連邦軍と、できるだけ多くの兵士を生きて連れ帰そうとする惑星連合軍の、意地のぶつかり合いでもあった。
この戦いは五〇〇〇隻の被害を出した惑星連合軍が、八月五日に撤退したことにより幕を閉じ、自由連邦軍は勝利の杯を飲み交わすことになる。
だが、勝利の余韻に浸る間もなく、八月六日、海兵宇宙軍ブライアン・ヴォイド少将によって凶報がもたらされることになる。
八月三日午後九時一七分。オケアノス星系に展開しているのは、自由連邦空軍第一二艦隊三六〇〇隻である。
この艦隊は通商連盟との国境付近を防衛することを主目的としていた艦隊であったのだが、ニューハワイ星系まで惑星連合軍の侵攻を許したため、対惑星連合戦線へと投入されたのである。
通商連盟方面から投入された第一一艦隊と第一二艦隊は、オケアノス星系への進軍に先だって、ヒュプノス星系を奪還していた。そのままヒュプノス星系の防備を固め、戦況次第では惑星連合軍の後背を狙うべく、陣容を整えていた。
両艦隊が当初の予定とは異なる作戦行動に移ったのは、他の星系で捕虜となった惑星連合の士官が重大な情報をもたらしたからだ。惑星連合軍の重鎮、ヴィッゴ・マクドゥーガル中将が少数の艦隊とともにオケアノス星系にいる。拷問を恐れた士官は簡単に情報を提供した。
鹵獲した惑星連合の艦艇に搭載されていたデータベースや、別の捕虜からも同様の情報がよせられ、自由連邦軍はこの情報を調査する必要性に迫られた。そして、オケアノス星系に最も近い、第一二艦隊がその任務に当たることになったのである。
ヒュプノス星系の防衛を第一一艦隊に任せて、第一二艦隊はオケアノス星系へと進入した。後方より海兵宇宙軍の艦隊が増援に訪れる手はずになっていたが、第一二艦隊の司令官は増援を待つことはなかった。
惑星連合のまとまった戦力はオケアノス星系に存在していなかったし、救援軍が派遣されてこようとも、一個艦隊で対応できると考えたためだ。ニューオレゴン星系での戦いを考えると、惑星連合が割ける戦力は一個艦隊程度と推測され、同数の戦力ならば勢いのある自由連邦軍が優位であるのは想像に難くない。
さらに、自由連邦軍に有利な要素がある。自由連邦軍は惑星連合軍の援軍が来る前に、マクドゥーガル中将を捕らえるか、もしくは殺してしまえばよい。それだけで、一個艦隊を撃ち破った以上の価値を得ることができるのだ。
オケアノス要塞を目指して移動を続けていた第一二艦隊が捕捉したのは、要塞の周辺に展開する惑星連合軍の艦隊であった。その数は約九〇〇隻。自由連邦軍の想定よりも多くはあったが、障害にはならないように思われた。
第一二艦隊の戦力は惑星連合の四倍。たとえ幾度か失敗しようとも、戦力の差はそう簡単には埋めることができないはずだ。
しかし、第一二艦隊司令官バーランド中将は驚きを隠すことが出来なかった。
九〇〇隻程度しかいない惑星連合軍が、真正面から進軍してくるのだ。メイン・スクリーンに映る惑星連合軍の行動は躊躇いがなく、一直線に第一二艦隊へと向かってくる。
考え込む司令官の下に、参謀達の見解が届けられた。戦術コンピュータや作戦参謀は、自暴自棄の上の無謀な突撃、と断じている。だが、報告書に目を通し終えても、バーランド中将の心は腑に落ちない。
午後九時五六分、慎重に態勢を整え待ち構える自由連邦軍と二〇〇万キロまで近づいた時、惑星連合軍の動きに変化が生じた。突如、惑星連合軍の艦艇を示す光点が、約九〇〇から二万以上に膨れ上がったのだ。
「質量波などから、物資用コンテナなどを破棄したものと思われます」
こちらを混乱させるか、もしくは背水の陣でも敷いたつもりなのだろう。敵の意図は時間稼ぎである。オペレーターの報告でバーランド中将はそう納得した。
惑星連合軍は、戦闘態勢を保ったまま、ゆっくりと接近してくる。コンテナを切り離した以外に動きは見られない。
そして、両軍の距離が一〇〇万キロになり、バーランド中将が迎撃戦を指示した瞬間、惑星連合軍は凄まじい速度で前進し始めたのだ。
「重力場を展開しないつもりか？」
バーランド中将の胸に疑惑が宿る。惑星連合軍は跳躍弾道弾用迎撃システムの展開を行わずに、最大戦速を超える加速で突進してくる。あれだけの加速では、慣性制御によるＧの減少もままならないはずだ。乗員は口を利くことすらできないだろう。
「まさか、ぶつける気か！？」
バーランド中将の頬を冷や汗が伝っていく。
あの九〇〇隻の艦艇は全て無人なのではないのか。あれだけの急加速に耐えられる人間は多くない。誰も乗っていない艦艇を囮に使ったのではないだろうか。
そこまで考えて、バーランドは慄然とした。第二次アヌビス星系の会戦のデータを思い出したのだ。
第二次アヌビス星系の会戦、その前半戦、惑星連合軍反攻の契機となったのは、リネット・サトクリフ少将による作戦だった。彼女は放棄したと見せかけた艦艇に対跳躍弾用迎撃システムを詰め込み、局地的な極大重力場を発生させることにより、自由連邦軍の艦列を乱すことに成功したのだ。
「オケアノス要塞周辺に敵艦発見！ 数、一〇〇！」
惑星連合軍は要塞周辺に潜んでいた一〇〇隻で脱出を図っている。この九〇〇隻は囮の特攻だ。オペレーターのさらなる報告によって、バーランド中将はそう確信した。
第二次アヌビス星系会戦でリネットが使用した作戦を九〇〇隻規模で行えば、オケアノス星系の特殊な重力場も相まって、想像を絶する効果を発揮するだろう。
また、別の方法もある。九〇〇隻の無人艦に反物質弾を満載すれば、即席の強力なミサイル兵器となる。費用対効果は恐ろしく悪いが、マクドゥーガル中将を逃がすだけの時間は稼げるだろう。それこそ、人命は金に代えられない。
どちらの方法にせよ、実行されれば、衝撃とエネルギーの濁流によって周辺の宙域は混乱し、一時的に航行が不能になる。その混乱に乗じれば、通常エンジンしか使えない一〇〇隻程度でも、十分に星系外縁部へと到達できる。あとは長距離跳躍で別星系へと離脱すればいいだけのことだ。
「進路を変える！ 敵は要塞周辺にいる一〇〇隻だ。九〇〇隻は囮、無人艦と思われる。やり過ごすぞ！」
バーランド中将の指示に従い、自由連邦軍は迎撃兵器の展開を中途で止め、艦列を翻した。矛先をオケアノス要塞へと向け、加速を開始する。
「敵艦、加速停止！」
「なんだと！？」
バーランド中将が叫んだのも無理はない。惑星連合軍は急激な加速を突然停止したのだ。そして、それまで無人艦と思われていた艦艇は、砲門を開いてビームの束を自由連邦軍に叩き込んだのである。
迎撃兵器の展開を中止していた自由連邦軍は、惑星連合軍のビーム攻撃を真っ向から受け止めてしまった。有効射程外であったにも関わらず、光学センサーのほとんどが破壊され、防御磁場の展開が遅れた艦艇が爆発四散したのだ。その数は決して多くはなかったのだが、自由連邦軍に与えた心理的影響は計り知れないものがある。
「頭が良い人ほど、相手の裏を掻こうとする。大軍の利を生かして、真正面から九〇〇隻を叩き潰しにこられたら、こちらとしても打つ手は限られてきたのにな」
《ストリボーグ二四五九》の艦橋で、第三者のように論評しているのはライナスである。脱ぎ捨てた重々しい宇宙服をセムラー中尉に手渡し、通常の軍服姿へと戻っている。とある理由でヘルメットは装着していない。
先の第二次アヌビス星系の会戦で、リネットが使った無人艦戦法の影響は大きい。そう推測したライナスは、人間が耐えられないほどの加速を行うことによって、九〇〇隻の艦艇を無人艦であると誤推測させ、相手の機先を制することに成功したのである。
自由連邦軍と接触する三〇時間の間にライナスが用意させたのは、宇宙軍では旧時代の遺物、と言われていた耐Ｇ装備である。これは、大気圏内軍兵士のオプション装備として正式採用されていたもので、作戦行動上、急激な加速が必要な状況でも、人体が耐えられるように開発、配備されていたものであった。
その他にも、必要最低限の物資以外を要塞内に置いてスペースを確保し、慣性制御システムをより強力にする機材を積み込んだのである。これによって、常識外の加速を実現させたのである。
さらに、跳躍弾の応酬による長距離戦から、ビーム砲による中距離戦を経て、接近戦で決着をつける、という宇宙空間における戦闘の定石を破ることによって、第一撃を劇的に加えることに成功したのであった。
そもそも、ビーム砲、レーザー砲の有効射程とは、敵に命中させられ、尚且つ、ある程度の損害を与えられる距離のことである。宇宙空間ではビームやレーザーの減衰はほとんどないのだから、命中精度を気にしなければ、射程は無限とまではいかなくとも長大なものになる。
さらに、無人艦による突入、自爆作戦だと考えた自由連邦軍は直撃コースを避けるための回避行動を優先し、対ビーム防御策をなんら講じていなかったのだ。若干とはいえ、被害が出るのは当然である。
「しかし、もしも、敵がこの作戦に乗らずに、通常の迎撃システムを展開させる戦術をとってきていたら、どうされていたのですか？」
改めて跳躍弾道弾用迎撃システムの展開を命じるライナスの指示を伝え終え、セムラー中尉が興味津々、といった態でライナスに疑問を投げかけた。それに対するライナスの返事は周囲の人物を呆れさせつつも感心させたのである。
「その時は、黙って撃滅されていたさ」
ライナスの周囲の人間は彼の実力を認めつつあったので、見かけによらず剛胆な人だ、と感じたのだが、ライナスの態度が計算されたものだと見抜いた人物はいなかった。ましてや、最前線にありながら戦闘用のヘルメットを装着せずに、あえて表情を晒していたことなど、気づいた者はいなかった。
本来、一個艦隊の司令官でもなければ、戦闘中はヘルメットをつける。これは生存率を高めるための規定でもある。一個艦隊クラスの大艦隊ならば、そうそう旗艦が撃墜されたり被弾することもないので、装着しない人間もいるのだが、あくまでもそれは特殊な例だ。
この時のライナスが戦闘用のヘルメットを装着していないことなど、常識は考えられないことであった。九〇〇隻規模の艦隊、そして、自らが陣頭に立つ型の指揮官であるライナスである。旗艦《ストリボーグ二四五九》の位置は前線に近く、油断すればすぐに破壊されてしまうだろう。
とはいえ、ライナスが取り立てて剛胆なわけでもない。勇気に溢れ、敵を恐れない指揮官を演じてでも、味方の胸に自信と信頼を植えつける必要があったのだ。既に相手の機先を制したことで戦況は有利ではあるが、敵は四倍。予断を許す状況ではない。味方の戦意を昂揚させるためなら、自分を偽る必要すらあったのだ。
ただし、ライナスがセムラー中尉に語ったことは真実ではあったが、全てでもなかった。ライナスには敵が定石どおりの戦術を取った場合の対策も考えてあった。それになにより、要塞周辺に残した一〇〇隻の艦艇が、自由連邦軍の疑心暗鬼を誘うことを見抜いていたのである。
戦闘は日付が変わり、八月四日に入っても続いている。機先を制することに成功したライナスは指揮下の艦艇を完全に制御すると、突撃と後退を繰り返して自由連邦軍を手玉に取っていた。自由連邦軍が攻勢に出ようとすれば突進して勢いを削ぎ、その突進を逆用して半包囲に持ち込もうとすると、あっという間にオケアノス要塞方面へと後退していく。ライナスはこれらの指揮を根気良くこなしていた。
モイラ星系の戦いでも見せたライナスの粘り強さと統率力が、ここオケアノス星系でも発揮されていた。このオケアノス星系での戦いを研究した学者の中には、九〇〇隻という艦艇数が良い方向に反応した、と考える者も多かった。各戦隊指揮官に絶対的な信頼を寄せきることのできないでいるライナスが、ぎりぎり統率しうるだけの艦艇数であったというのだ。
さらにライナスを助けたのは、要塞周辺の一〇〇隻である。こちらこそが、真の無人艦であったのだ。この艦隊が不気味に留まり続けていたため、自由連邦軍の足は幾分鈍っていて、ライナスの自由な用兵を許していたのである。
実はこの一〇〇隻、大気圏内軍の所有する揚陸艦であり、宇宙空間の戦闘ではあまり役に立たない。邪魔だが、遊ばせておくのも勿体無い、ということで、ライナスは奇術の種に用いたのである。
惑星連合軍の初撃によって光学センサーが破壊され、索敵、情報力が減少していたため、この一〇〇隻が揚陸艦であることに、自由連邦軍は気がつくことができなかったのである。また、ライナスに手玉に取られて、自由連邦軍第一二艦隊首脳部が平静を保っていなかったという事情もある。
善戦を続ける惑星連合軍であったが、戦力の差はそう簡単に埋められるものではない。八月四日午前八時四二分、自由連邦軍はライナスの動きにようやく適応し始めて、惑星連合軍を半包囲下に置こうとしていた。
粘り強く戦い続けたライナスに、運命の女神が微笑んだのはこの時である。
「手こずらせおって……」
バーランド中将の呟きは第一二艦隊の声を代弁していた。惑星連合軍は抵抗を続けていたが、それも限界に達している。第一二艦隊は情報を分析し、惑星連合軍の増援が接近中であることを知っていたが、その到着よりも早く、惑星連合軍を壊滅させることができるだろう。
惑星連合軍は戦闘当初にコンテナを廃棄した地点まで後退している。敵の司令官の力量に、バーランド中将は素直に感服していた。一〇〇〇隻に満たない艦隊で一個艦隊を翻弄しているのだ。まだ奇策を隠し持っている可能性もある。勝利を目前にしながらも、彼は慎重に包囲網を狭めていくことを指示した。
「閣下、このままでは敵の包囲下に置かれます！」
緊迫した表情のセムラー中尉に軽く頷いて見せながらも、ライナスは新たな指示をだそうとはしない。ライナスは僅かに迷っていたのだ。
各艦艇の継続戦闘能力は限界に達しようとしている。慣性制御システムを新たに積み込んでいたため、物資の量が絶対的に不足していたのだ。この状況下で一〇時間も戦闘を継続できたことすら、並の司令官では考えられぬことではあったのだが。
ライナスに残された策はあと三つ。うち一つはオケアノス星系からの撤退を考えると、できれば使いたくない策であった。さらに、もう一つが実行できるかは、彼の力の及ぶ範囲ではない。
気づいてくれていれば、もう来てくれてもおかしくないんだけどな……。
覗く弱音を抑え込んで、ライナスは指揮椅子から立ち上がった。口を開きかけたその時、彼はホログラム・スクリーンの一つに釘付けになった。スクリーンでは味方を示す光点が増殖しつつあったのだ。
「左翼二〇〇万キロの地点に時空震！」
「時空震だと！？」
「天頂方向、上翼方面にも新たな時空震発生。数七〇〇から八〇〇！」
「後方にも七〇〇から八〇〇の時空震が！」
「左翼二〇〇万キロに艦艇多数出現。これは……」
「報告！」
言葉を詰まらせたオペレーターは、バーランド中将の上ずった声に押され、機能を回復させた声帯から、やっとのことで凶報を絞り出した。
「惑星連合軍です！」
「ばかな、このオケアノス星系内で有人跳躍を行えるはずが――」
バーランド中将の脳裏には、ある記憶が甦っていた。それは、オケアノス星系特有の現象で――。
バーランド中将はうめいた。肉食獣のうなり声にも聞こえたが、それは敗北に直面した肉食獣の発するものであった。
「オケアノスの大河……」
オケアノスの大河。それは複雑な重力場を持つオケアノス星系内部に見られる、特有の自然現象である。
惑星と衛星だけで約五〇〇を数えるオケアノス星系内部で有人の短距離跳躍を行うのは、まさに命知らずといえよう。幾重にも干渉する惑星、衛星、小惑星の重力場が跳躍時に与える影響を計算するのは困難で、跳躍直後、どこかの衛星に衝突する可能性もあるためである。
事実、昨日から続く戦闘で、自由連邦、惑星連合、両軍の放った跳躍弾のうち、実に二割が付近の小惑星や衛星、惑星周辺に跳躍してしまっているのだから。
このような自然状況下で惑星連合軍は跳躍を成功させ、自由連邦軍の至近に出現したのだ。その秘密がオケアノスの大河と呼ばれる現象であった。
惑星や衛星、小惑星がその場に留まっていることはない。恒星を中心として円、もしくは楕円を描き、一定の周期をもって公転しているのだ。それにより、重力場も惑星や衛星とともに動いていく。このため、オケアノス星系では重力場が入り乱れて跳躍後の出現地点を限定するのが難しいのであるが、ここに神のいたずら、とでも言うべき自然現象が隠されていたのだ。
惑星や衛星の公転により、跳躍が可能になる地域・期間が存在するのである。これは、重力場による影響が一時的になくなった地点であり、砂漠の中に一夜だけ現れるオアシスのようなものである。重力場の影響を受けている地域を赤く塗ってオケアノス星系を見れば、無色透明の地点が時折出現するのだ。
この重力場の影響を受けない地域が極稀に集まることがある。海中に生じた泡のようなもので、その泡の中でならば短距離跳躍も行うことができる。そして、その泡の最大級のものは、星系外縁部から恒星付近にまで延びることがあった。それはさながら、重力の影響を受けない外縁部から延びる一本の道のようであった。
この道こそ、オケアノスの大河である。
惑星連合軍の新たな艦隊は、この大河を通って出現したのだ。
包囲していたはずの自由連邦軍は一転して囲まれることになった。左翼に出現した惑星連合の艦隊はその艦列を自由連邦軍の天底方向、下翼へと広げている。上翼と後方に出現した艦隊も、少数の艦隊を分離させ、自由連邦軍の右翼へと迫っていた。
さらに、追い詰めていたはずの惑星連合軍九〇〇隻は、増援軍を確認すると後退の速度を上げた。陣形を広げ中距離砲の火線を集中させると、火力の壁をもって自由連邦軍の前進速度を抑え込む。
薄い膜で包まれたボールのように、自由連邦軍は包囲されようとしていた。
「なぜだ！ なぜ、惑星連合軍がオケアノスの大河を知っている！」
バーランド中将が叫んだのも無理はない。オケアノスの大河は自由連邦軍の最重要機密の一つであった。この自然現象に最初に気がついたのは、この地を根拠地としていた海賊であったとされているが、海賊討伐以後、この現象を知るのは自由連邦軍だけであるはずであった。
オケアノスの大河を予想することは極めて難しく、惑星連合軍の全コンピュータが総力を挙げても二年はかかるはずである。そして、オケアノス星系に惑星連合軍が足を踏み入れたのは、今回の『青獅子作戦』による出征が初めてなのだ。この短時間ではデータを収集できても、オケアノスの大河を見つけることは出来ないはずであった。
「……内通者がいたのか」
バーランド中将はそう結論づけた。いや、そう思い込みたかった。彼は脳裏に宿ったもう一つの結論を恐れていたのだ。
もし、オケアノスの大河を、直感的に感じ取った人間がいるとしたら？
バーランド中将は目を逸らしたが、オケアノスの大河の存在に気がついた人物のうち、一人は完全な直感で、もう一人も理性ではなく感覚によって、オケアノスの大河を見つけだしたのである。
「気づいてくれて良かった。これでなんとか勝てそうだな」
そのうちの一人、ライナスは心の重荷が消え、晴れ晴れとした表情で指揮椅子へと座り込んだ。額の汗を拭い、つい先刻までそんな余裕すらなかったことに気づき、驚くと同時に安心した。
突然の惑星連合軍増援に、自由連邦軍は明らかに動揺している。艦列の乱れを見る限り、敵の司令官もまともな精神状況を維持できてはいないようであった。
ライナスがオケアノスの大河を知りえたのは、着眼点の良さと人並み外れた集中力によるものである。オケアノス星系の複雑な重力場を知った彼は、その影響の薄い部分をリストアップし始めた。オケアノス星系内で戦闘になった場合に備えて、跳躍弾を最大限に活用できる場所を調査するためだ。そして、作業を進めるうちに、彼は重力場の影響が少ない部分が集まり、道のようになるのではないか、と推測したのだ。
オケアノスの大河は一本ではない。惑星や衛星の位置により、幾本かが計算で算出されていた。その周期は短くても三〇年、長いものだと四万年になると計測されている。ライナスが知りえたのはそのうちの一本で、オケアノス要塞の近くに生じる重力場の空白部分を重点的に調べるうちに、星系外縁部にまで延びる大河を見つけ出したのであった。
これはライナスの美徳のうち、勤勉さと継続性、揺るがぬ集中力がもたらしたものであった。モイラ星系の戦いで『緑鎚作戦』司令部艦隊を壊滅から救った、彼の才能が形を変えて現れたのである。
「情報連結終了しました。サトクリフ少将との通信、開きます」
オペレーターの声が終わるや否や、ライナスの前にホログラム・スクリーンが現れた。スクリーンの中のリネットを見て、ライナスは反射的に身の危険を感じ、体を引いてしまった。リネットが最大級に不機嫌な表情で彼を睨み付けていたためだ。
「ライナス」
「はい」
「後でお仕置きね」
「……了解」
スクリーンが消え、ライナスはため息を漏らした。
相当怒っているな、あれは。さすがに心配かけすぎたか。でも、自分で招いた状況じゃないのに。
首を三回横に振ると、ライナスは艦橋のメイン・スクリーンに視線を向けた。彼にはまだ最後の仕事が、包囲下にある自由連邦軍を壊滅させる、という仕事が残っていたのである。
八月四日。この日、オケアノス星系にいた第一二艦隊は不幸であった。惑星連合軍は全方位からの攻撃を加え、自由連邦軍は瞬く間にその数を減らしていく。
前方からはライナス・ウェストールの九〇〇隻、左翼から下翼にかけてはリネット・サトクリフの一二〇〇隻が、高密度の射撃で襲い掛かってくる。上翼に展開しているのはリック・ブライトンが指揮する約六〇〇隻で、密集している自由連邦軍の艦列に徹底した中距離砲戦を行い、自由連邦軍の損害を拡大させていった。
「無理に狙いをつけようと思うな。敵は密集している。撃てば当たるぞ！」
味方を鼓舞し、後方から容赦のない攻撃を仕掛けているのは、ウォルター・パージェス率いる戦隊である。
絶え間なく降り注がれる惑星連合軍の弾丸は、死地でのたうち回る自由連邦軍を地獄へと招待し続けている。あまりの爆発と閃光の多さに、惑星連合軍の各艦艇の光学センサーに異常が生じたほどであった。
「お姫様が助けに来ると思って、健気に待っていたわけか。戦場でも浪漫を忘れない、ライナスも良い男に成りつつあるな」
奇抜な髪色の青年はおよそ戦場とはかけ離れた口調で、これまた戦火とはほど遠い言葉を口にしている。この包囲攻撃の際、もっとも優れた戦績を上げたのがジュイル・ワイルダーである。
ウォルターとともに自由連邦軍の後方に跳躍を果たした彼の艦隊は、レールガンによる一斉射撃の後、小型戦闘艇と軽装艦を前面に押し出し、自由連邦軍の艦列に踊りこんだ。我を失っている自由連邦軍の各艦艇に、機動性に優れる小型戦闘艇や軽装艦を迎え撃つ余力などなく、追い立てられ狩られていった。
「ニューハワイ星系での我が軍もそうだが、敵を甘く見るからこのような惨劇を招くのだ。獅子は兎を追うにも全力を出す。獅子になりきれなかった自由連邦軍は、負けるべくして負けたのだ」
そう呟いて沈黙したのはリック・ブライトンである。この時の彼はウォルターやジュイルに比べると華やかさで劣っていたが、敵を包囲下から逃さないという大前提の維持を、確実にこなしていた。
参謀を務めているマーガレット・ランサムは、リックの呟きからライナスとリネットに対する賞賛と嫉妬を感じた。オケアノスの大河の存在に気がついたのがたった二人、ライナスとリネットだけだったことがその原因だろう。
リネットに今回の作戦の概要を説明されるまで、リックはオケアノスの大河の存在に全く気がつかなかったのだ。幼少の頃より天才と賞されてきたリックには、耐え難いことであっただろう。
ただ、そこで自暴自棄にならないのが、リックの優れた点でもあった。子供のように拗ねたり愚痴を言ったりすることはあったが、その心の底では、己に足りないものを貪欲に吸収しようとしていた。
このオケアノス星系での戦いに際しても、オケアノスの大河の存在を知らされるや、すぐさまオケアノスの大河を突破し、交戦状態にあるであろう自由連邦を包囲殲滅する作戦を立案し、迅速な包囲につなげたのである。
思いを馳せる余裕のある惑星連合軍に対して、自由連邦軍の現状は悲惨であった。
逃げ場を失っている第一二艦隊は包囲網に押されて密集せざるをえず、僚艦の爆発に巻き込まれて、二次、三次と被害が続出する羽目になってしまった。回避行動をとろうにも僚艦や残骸が邪魔をして、動くことすらままならない。
バーランド中将はなんとか艦隊を立て直そうと必死であったが、その努力と忍耐心が潰えたのは、八月四日の午後一時二〇分であった。彼は傷つきながらも健在な六〇〇隻を集めると、比較的包囲の薄い右翼に戦力を集中させたのである。この攻撃により、惑星連合軍の艦列は乱れ、自由連邦軍は包囲を打ち破り、退路を確保したかに見えた。
テレサ率いる艦隊が側面攻撃をおこなったのはその時である。彼女は自由連邦軍の最後の反撃を受け止めることはせずに、艦列を引き自由連邦軍の前に道を空けてやった。惑星連合軍の艦列は乱れたのではなく、側面攻撃への陣形再編であったのだ。
冷徹なまでの残酷さで側面攻撃は行われ、脱出を試みた艦艇は深淵に呑まれるように消えていく。側面攻撃の苛烈さと正確さは計算されたもので、表皮を削り落とすように、確実に第一二艦隊を崩壊させていった。
それでも、二〇〇隻ほどが生き延び、四〇万キロ離れた地点で集結し、艦列を整え始めた。包囲網の中に未だ閉じ込められている、味方を救いにいこうとしたのだ。
だが、彼らの勇気に運命の女神が微笑むことはなかった。予想もしなかった方角からの跳躍弾の一斉攻撃を受け、半数以上が一瞬で消滅したのである。
これはライナスの手によるものだった。彼はオケアノス要塞内部に貯蔵されていたありったけの跳躍弾をコンテナに詰めていたのだ。戦闘当初、ライナスが廃棄したコンテナの中身は食料や補給物資などではなかったのだ。彼の指示によって眠りから覚めた跳躍弾は、健気にも味方を救うために戦場へ戻ろうとした艦隊の横面を文字通り弾き飛ばしたのである。
この攻撃でバーランド中将が戦死し、ついに自由連邦軍の戦意は消え去った。脱出に成功した一〇〇隻はなんとか逃げ延びたが、包囲下にあった自由連邦軍の艦艇は一隻残らず破壊された。
これは、自由連邦軍の追撃を阻むためである。降伏した自由連邦軍の兵士達は脱出艇や戦闘能力のないシャトルに詰め込まれ、逃れた一〇〇隻の艦艇を追っていった。
八月六日にヴォイド少将とボズマン准将率いる海兵宇宙軍がオケアノス星系に到着した時、彼らを待っていたのは一〇〇隻にまで打ち減らされた第一二艦隊であった。
ボズマン准将の報告を聞き終えるまで、アリシア・デュバル元帥は目を閉じたまま無言を貫いた。無言、無表情の女元帥からは感情を読み取ることはできない。
深紅の旗艦《ハルピュイア》の艦橋である。ニューオレゴン星系での勝利を祝うはずの集いが、オケアノス星系での敗戦を分析する会議に変わってしまっていた。
「マクギリス大佐、どう思う？」
「惑星連合軍がこの短期間にオケアノスの大河を発見したとは思えません。内通者がいると考えるのがもっとも妥当かと思われますが」
「ボズマン准将」
「マクギリス大佐の意見に賛同いたします」
さらにジョハンソン、フレーザー、クラックホーンという海兵宇宙軍幹部達の意見も、多少の違いこそあれマクギリス大佐とほぼ同じであった。
唯一異なる意見を述べたのは、最年少のヴォイド少将である。彼はデュバルに指名されると、己の考えを朗々たる声で話し始めた。
「内通者がいる可能性がもっとも高いと思われますが、小官が愚考しますに、少ないデータから、オケアノスの大河を発見した可能性を考慮すべきかと」
「……それは、彼らの解析力、計算力、技術力が我々の想像を遥かに超えているということか？」
「いえ、元帥閣下。直感のようなものでしょう。着眼点さえ優れていれば、オケアノスの大河の存在に感づきます。そこから必要なデータだけを抜き出し、少量の推測を加えれば、見つけ出すことは不可能ではないでしょう」
「お言葉ですがヴォイド少将、その可能性は低いかと。四〇〇以上の惑星、衛星に、計測不能の小惑星による重力場です。計算プログラムに与える不確定要素が大きすぎます。海兵隊戦略戦術研究所に設置されているような最新鋭機器を用いても、オケアノスの大河を見つけることは――」
「ボズマン准将、天才には天才がわかるのだ」
強烈なまでの自尊心であった。このヴォイド少将の言葉はさすがに不遜と映ったようで、他の幹部達は苦々しい表情で彼を見つめている。無表情を貫くデュバル元帥を除いて。
「ヴォイド少将、それは惑星連合軍のリネット・サトクリフ少将のことか？」
「はい、元帥閣下」
「なるほど。……マクギリス大佐、内通者を探し出すよう情報部に連絡。他の者は下がってよい」
前線指揮官達が敬礼を残して艦橋を去っていってもまだ、デュバルの両目は閉じたままだった。まるで指揮椅子の上で瞑想しているかのようだ。
天才には天才がわかるのだ、か。その言葉を口に出してしまうあたりが、ヴォイド少将が一人立ちできない理由だろう。
そう、デュバルは考えている。彼女の意見はヴォイドと同じであった。だが、彼女の思考はさらにその上を行って、オケアノス星系の戦いを考察している。
「マクギリス大佐、アヌビスⅢでの戦闘のデータを」
情報部への連絡の手はずを整え、デュバル元帥の傍らに戻っていたマクギリス大佐は、彼女の指示に従ってホログラム・スクリーンを彼女の前に出現させた。ようやく目を開いたデュバル元帥は端末を操作して戦闘のデータを読み進めていく。
「ここだ。この艦隊だ」
デュバルの手が止まり、スクリーン内の戦術画面が停止した。この時スクリーンに表示されていたのは、自由連邦軍崩壊のきっかけとなった、少数の艦隊によるＬＫ七五六宙域の奪取である。
「アヌビスⅢ周辺宙域で戦闘中の、我が軍の退路を断つこの動き。オケアノス星系の戦いで最初の九〇〇隻を率いていた者と同じだ」
「参謀達に解析させましょうか」
「必要ない。同じだ。……この艦隊の指揮官は？」
「第三一独立分艦隊、ライナス・ウェストール准将です」
「聞いたことがあるな」
デュバルの視線を受けて、マクギリス大佐は別のスクリーンを出現させた。そこには、ライナス・ウェストールの胸から上の写真と彼の経歴が記されている。目を通したデュバルは、感心したように小さく声を漏らした。
「モイラ星系で惑星連合軍の全面崩壊を防いだ男か」
「リネット・サトクリフとは同期のようです。星の翼事件にも関係があったようですが」
「彼の情報をさらに集めろ。この才能は我が国の危機となる可能性がある。必要なら、大統領にも働きかけろ」
一礼を残して立ち去るマクギリス大佐の後ろ姿を見送り、デュバル元帥は腕を組んだ。
最悪、非合法な手段を採らなければならないかもしれない。
恐怖にも似た敗北感が彼女を包んでいる。二一歳、戦場に立ってから僅か三年で、あれだけの指揮、統率力を備えた人間を、彼女は見たことがなかった。戦場で勇を競いたいという感情とともに、海兵隊司令官という地位が彼女を縛る。
彼が自由連邦に対する害毒となるならば、この手で倒す。そして、戦場で勝利することが出来なかった場合、その時は……。
『青獅子作戦』に従軍していた惑星連合軍全軍がルア星系に帰還したのは、八月二〇日のことである。
第二次アヌビス星系の会戦からオケアノス星系の包囲殲滅戦に至る一連の戦闘において、惑星連合軍、自由連邦軍、ともに一万隻、二〇〇万人の死者を出して終わった。二〇〇万の死者が両国の社会環境に与える影響を完全に把握することは難しいが、二〇〇万の死者の家族、友人の心に、消えることのない傷と記憶が刻まれたことは確かだ。
そして、これだけの犠牲を払ったにもかかわらず、領土の変化は全くない。アヌビス、ニューハワイ両星系の防衛設備が約七〇％破壊されたに留まる。
先の共同体への『緑鎚作戦』と同様、惑星連合軍は『青獅子作戦』はある程度の戦果を上げたとし、勝利を宣言した。対する自由連邦軍も、惑星連合軍を撃退したニュースを大々的に報じた。
ある意味では、勝利とも断言できるだろう。マクラクラン財閥を始めとする軍需産業は、失われた艦艇や兵器、防衛設備の補充という需要が生じたのだから。単純な道徳観だけで彼らを詰ることはできない。道具をどのように使用するかは、人々の手に委ねられているのだ。
この『青獅子作戦』による出征が後世に与えた影響として最も大きいのは、自由連邦軍上層部、特に海兵隊総司令官アリシア・デュバル元帥の人名録に、ライナス・ウェストールという名が刻まれたことである。モイラ星系の戦いに続きその才能を発揮してみせたライナス・ウェストールという輝きは、共同体軍のみならず、自由連邦軍にも知れ渡ることとなった。
だがその一方で、ライナス・ウェストールの名は一般大衆には定着していない。惑星連合軍の新星として惑星連合内での知名度は上がっていたが、他国の人々には広まっていないのだ。局地的な戦闘では勝利に貢献したとはいえ、大勢を変えるまでの実績はなかったからだ。
やがて、ライナスが望まぬ形で、彼の名は人々に知られることになる。ただ、彼の名が驚きとともに全人類社会に広まるまで、まだ三カ月の時が必要だった。
惑星連合首都星アドニス。内閣府防衛委員室のオフィスの一つで、明晰な女性の声が響いている。
「……以上が、オケアノス星系の戦いの全貌です」
サンディ・アンブローズによる報告の聴衆は二名であった。その一人、オフィスの主であるケネス・リッカードが口を開いた。
「想像以上かもしれんな」
「面白いですな。閣下の現役時に匹敵する才能かも知れません」
「今年の初めには、彼の実力を疑問視していなかったか？」
「私には、カニグズバーグ閣下のような、人の本質を見抜く目はありませんので」
恐縮してみせるケストナー大佐に苦笑を覗かせたリッカードだったが、その笑いは三秒程で収まった。
「例の計画、予定どおりに進めるぞ。再建の済んだ第三艦隊と独立分艦隊を幾つか派遣する。ウェストールを少将に昇進のうえ、分艦隊を率いさせろ。それと……」
心得ているとばかりに、ケストナーは頷いた。
「既に彼らと連絡はついております。万が一、の事態が生じても対応できるだけの物資は確保させました。問題は、ウェストールに伝える方法ですが――」
「私が伝えよう」
間髪置かぬ返答に、ケストナーだけでなく、傍らで控えていたサンディも驚きを隠せなかった。
「……閣下自ら、ですか」
「ああ。道中、機会はあるだろうからな」
リッカードの表情が輝いているのを、彼の腹心の部下達は確認した。それは、敵味方かかわらず、有為な人材を見つけた時の笑みだった。
「……で、これがお仕置きなわけか？」
メルヴィンは頬杖をついて、にやけた笑みを浮かべている。彼の前では空色の髪の青年が四苦八苦しつつも編み物をしていた。その隣では薄紅色の髪が規則正しく揺れている。半分夢の世界へと旅立っているリネットの肩に上着をかけてやり、ライナスの手元を覗き込んだのはプリシラである。
「上手じゃない、ライナス君」
「……ごめん、集中してる」
ライナスはスクリーンの説明を凝視するのと、二本の編み棒を動かすのを交互に行っている。両方の作業にそれぞれ一分以上かけているので、遅々として進んでいないのだが。
「それにしても、二人とも、よくわかったね。あの日、オケアノス要塞周辺まで跳躍が可能になるってことに」
「頭の出来が違うからな、この二人は。良い意味でも、悪い意味でも」
戦艦《ヴェーレス九八》の個室には、好意に満ちた声が充満していた。友軍の危機を救い、絶対的な死地に追い込まれながらも、その智謀をもって勝利をもたらした二人の若き指揮官は、かけがえのない二人の友人に見守られ、些細な平穏を満喫している。
だが、それも、首都星アドニスに帰還するまでだろう。今回の戦功によってリネットもライナスも昇進し、二人が更なる戦場へと送り込まれるであろうことは、明白だった。
「俺が驚くのは、リネットが来るってことを疑わずに戦い続けた、ライナスの心の強さだよ。もしも、リネットが気づかなかったのなら、どうなっていたかわからなかったのにな」
「信じ合う二人、か。いいわねぇ。ライナス君もリネットも。それに比べて……」
「……プリシラ、俺がまるで信用できないみたいな目で、見ないで欲しいな」
「自分の胸に手を当てて、それでも同じ台詞が言えるかしら？」
「……ごめんなさい、言えません」
会話が途切れ、何気なく動いたメルヴィンとプリシラの視界は、先程と全く変わらないライナスとリネットを映し出している。
「完成までには、どれくらいかかることやら」
「三年ぐらいかかるかもね」
外野の意見など耳にもいれず、ライナスは手を動かし、リネットは眠りかけている。二人を見守るメルヴィンとリネットも含めて、少なくとも今この時は、彼らは幸せであるようだった。
Ver 1.0 2006.10.17
Ver 1.1 2006.11.06