昔ながらのサイフォンから香ばしい匂いが漂ってくる。フラスコを満たしていた水が沸騰し、ロートへと上っていく。抽出される過程を目で楽しみ、香りを楽しみ、出来上がったコーヒーを楽しむ。
執務室の近くにある休憩室で、ライナスはソファーに腰掛け、短い休息を堪能していた。彼の隣では、リネットとヴァネッサがホログラム・スクリーンに雑誌を表示させ、他愛もない会話を交わしている。
できるだけ多くの時間をリネットの傍で過ごせるよう、ライナスは心を砕いていた。戦女神の長女殿の機嫌を損ねないためには、それが一番だった。二日に一度は独立機動艦隊司令部で業務をこなすようにしているのも、彼の苦心の現われである。努力の甲斐あってか、ライナスの傍にいる限り、リネットが不貞腐れることも拗ねることもなかった。
二人が傍にいることで救われているのは、リネットだけではない。彼自身は気づいていなかったが、ライナスの精神衛生にも好影響を及ぼしていたのだ。
旧共和国領の軍務における最高責任者に就任してからというもの、仕事漬けの毎日を送っているライナスである。昼食や夕食でさえ、各星系の代表者や軍幹部、有力企業の取締役などとの会見を兼ねているのだ。彼にとって心安らげる数少ない時の一つを、リネットはもたらしてくれる。空色の髪の青年にとって、コーヒー一杯を飲み終えるまでの小休止が、何よりも貴重な時間であった。
とはいえ、ライナスとリネットの間にさしたる会話があるわけでもない。休憩時間の内容といえば、ライナスの横でリネットが寝ているか、リネットとヴァネッサの雑談をライナスが聞いているか、のどちらかであった。
この日、激務の合間の休み時間は後者の様相を示していた。二人はどうやら、惑星連合では流通していなかった、旧共和国特有のフェイスクリームについて語り合っているようである。女性同士の華やかな話に参加できるほど、ライナスは口が達者ではなかった。そもそも洋服や化粧品の類には疎いライナスである。口を挟んだところで、話についていくことは難しかっただろう。
話に加わることができないのならば、一人で暇を潰すしかない。ライナスの理性は仮眠をとることを進めていたが、一度体を横にしてしまうと、本格的に眠ってしまうように彼には思えてならなかった。
普段ならばここでコーヒーのブレンドについて考え始めるのだが、あいにくとこの日はコーヒー豆の配分量について悩むことはできなかった。昨日のブレンドはライナスにとって満足の行くもので、当分の間、新しい香りと苦味を探求する必要はなさそうである。
結局、ライナスは自信作のコーヒーを飲みながら、思索に耽ることになったのである。
ライナスの脳裏を占める最重要課題といえば、やはり最前線の状況と対策であろう。気分転換に別のことを考えようとしても、彼の頭はなかなか軍務から離れようとしない。
宇宙暦四二三年現在、ライナスの管轄下である旧共和国領で戦闘が絶えないのは、自由連邦との国境である。戦闘は続いているが、戦局は良い意味で膠着状態に陥っていた。
ライナスはこの方面の指揮を、独立機動艦隊副司令官となった、リック・ブライトンに任せている。本来、惑星連合の国境警備とは各方面軍が担当する。旧共和国領の最前線は第六方面軍の担当である。その通例からいけば、自由連邦との戦闘を統括する者は第六方面に所属する将官であるべきだ。
しかし、ライナスにとっては残念なことに、一方面の司令官を任せられるだけの識見と統率、それに加えて高い戦術能力を持ち合わせている人間には限りがあった。第六方面軍や独立機動艦隊においてその条件を満たしているのは、僅か三名に過ぎない。ライナス本人とリネット、そしてリックである。
ライナス自身は総司令官として旧共和国領全土を見渡さねばならなかった。彼が担うのは自由連邦方面だけではない。共同体との戦線も彼が守らなければならないのだ。どちらの方面へも救援に向かえるよう、ファビヌス星系に駐屯するのが最善の策であった。
ライナスが後方にて待機せざるを得ない以上、残るはリネットとリックである。だが、リネットに最前線を任せようとは、ライナスは考えていなかった。ライナスはリネットを切り札的な存在として考えていたのである。それになにより、ライナスと引き離されれば、戦女神の長女殿は大いに気分を害するであろう。
消去法の結果、残るは三人のうち、リック・ブライトンただ一人であった。ライナスからすれば、たとえ所属が独立機動艦隊にあろうとも、自由連邦との最前線をリックに任せるしかなかったのだ。
ただし、リックに最前線を任せる期間は長くても二年ほどになるだろう、とライナスは考えていた。それだけの期間があれば、他の人材が前線の司令官に耐えうるだけの実力を身につけてくれるはずであった。
他の人材の筆頭ともいえるのが、リオン・オクムラとベティーナ・マクドゥーガルの二人である。二人に対するライナスの期待は大きい。彼はこの二人に、第六方面軍の最前線を任せるつもりであった。
ベティーナはこれまでライナスの副司令官として数々の戦闘に参加し、一軍を指揮統率する能力に優れていることを随所において示してきた。また、彼女は四家族の一つ、マクドゥーガル家の人間でもあり、幼少の頃から英才教育を受けている。経験さえ積めば、一方面の司令官も十分に任せることができるであろう。
そのような背景を考慮すると、ベティーナに一方面の指揮を一任できるようになるまで、多くの時間は必要なさそうである。その一方で、リオンに関してはより多くの時間が必要であった。
リオンは元々軍人ではない。軍人ではないが、昨年、宇宙暦四二二年の共和国侵攻において、リオンの示した才覚と素質は周囲に期待を抱かせるに足るものであった。司令官に求められる戦略的な思考や広い視野を自然と体得しているようであり、ライナスからの期待度はベティーナに対するそれを上回っている。
しかし、やはり問題となるのは、士官学校で学ぶ基礎知識や軍務経験がリオンにはないことであった。宇宙暦四二三年が始まってから半年、軍事や兵器に関する知識を吸収し、シミュレータでの訓練を積んではいるが、一軍を任せるにはまだ足りない。
とはいえ、この二人にかけるライナスの期待は別格であった。リオンに対する彼の期待が大きいことは、自らの傍らで教育を受けさせていることからも理解できる。ベティーナについても、歴戦の指揮官達とともに共同体方面の前線の一つを任せており、信頼していることが窺える。
この二人がその才能に見合った実力を発揮できるようになれば、リックを本来の独立機動艦隊としての役割に戻すことができるようになる。それまでは、ライナスはリックに頼るしかなかったのだ。
自由連邦との戦闘ほどには激しくないのが、共同体方面での戦況であった。ベティーナ・マクドゥーガルを始めとする旧惑星連合軍第八艦隊の指揮官達がこの方面を担当し、共同体と睨み合いを続けていた。
この共同体との最前線は戦績が芳しくないことで有名になりつつあった。それというのも、この方面には新兵が多数配属されていたのである。熟練兵の部隊と違って、結果が伴わないのは当然のことだ。
それでもこの半年間で、共同体に押し込まれていた戦況は徐々に挽回しつつある。多くの戦闘を経て新兵達が経験を積んだためだ。配属当初と比較すれば、彼らの動きは見違えるほど早くなった。また、ぎこちなかった各部隊の連携も改善されつつある。
戦いつつ錬兵を行うのはライナスの特徴の一つであるが、この時もそれが良い方向に発揮されたといえるだろう。
宇宙暦四二三年の旧共和国領における惑星連合軍の配備は、同時代の人間からも、歴史家や戦死研究者からも、一定の評価を与えられている。その中でも特筆すべき点は、星の翼と呼ばれる青年達と熟練兵の配置であろう。
星の翼のうち、ハーヴェイとメルヴィンを除く九名が独立機動艦隊に所属している。そのうち、一艦隊の指揮官として艦隊を率いているのが、テレサ・リー、ジュイル・ワイルダー、ウォルター・パージェスの三名である。そして、この三名の艦隊には、リネットの直属艦隊に継ぐ精鋭が集められていた。
彼ら三名の力量と部隊の錬度を考慮すれば、彼らの活動領域は共同体か、もしくは自由連邦との最前線にあってしかるべきである。だが、ライナスは彼らに前線での勤務を命じなかった。ライナスは旧共和国領の巡回を、彼らに命じたのである。
これは占領直後であるという旧共和国領の事情と、新兵が多数配備されたという状況とを考慮した指示であった。
軍隊は外敵から国を守らねばならない。共同体と自由連邦の戦闘が断続的に続いていることを考えれば、尚更である。国内の治安よりも国防に戦力を割くべき時であるのは間違いなかった。そう考えれば、精鋭を国内巡回の任に当たらせるなど、適材を適所に配していないことになる。
それでも、ライナスは信頼できる戦力を国内に回した。少しでも何か問題が起きれば、それが暴動につながる可能性を、旧共和国領は秘めていたのである。そういった事態を未然に防ぐため、ライナスは優秀な戦力を国内に回したのだ。
ライナスは僅かな休息の時を利用して、第六方面軍と独立機動艦隊の大規模な配置替えを考えていた。共同体方面の新兵からは、新の字が外れかかっている。このまま彼らを最前線に張り付けておくのも一つの手ではあるが、星系防備や国内巡回の部隊と順次交代させるべきではないか、とライナスは思っていた。
何者にも休息は必要である。絶えず緊張に晒されてきた兵士ならば、その重要性はさらに増す。
休憩室の扉が開いたのは、ライナスが実際にどの艦隊を後方に下げるか考え始めた時だった。
「休憩中すまない。少し話があるんだが」
入室してきたのは精悍な男性である。初対面の人間は日に焼けた肌と引き締まった大柄な体に圧倒されるであろう。ウォルター・パージェス。星の翼の一人にして、ライナスやリネットとは士官学校時代からの付き合いである。
そんな友人の表情は、ライナスが始めて見る類のものだった。勧められたソファーにも腰掛けずに立っている。
「席外す？」
「いや、構わない。むしろ、居てくれ」
重要な話だと思い、気を利かせたのだろう。リネットはヴァネッサとともに立ち上がりかけたが、その一声でソファーに座り直した。
「その、な。言っておかねばならないことがあってな」
ウォルターはそもそも口数が多い方ではない。それでも、話すべきことはしっかりと話すことのできる人間である。そんな彼がなかなか本題を切り出せずにいる。
とても重大なことなのだろう。もしかしたら、悪い報せかもしれない。
ライナスは決して動揺せぬよう、心を落ち着けようとした。リネットもヴァネッサも、固唾をのんで見守っている。
「実は」
巨漢の青年は決心がついたようだ。三人の聴衆は身を乗り出したくなるのを我慢しながら、次の言葉を待った。そんな三人を待っていたのは、想像もしなかった言葉だったのである。
「……今度、結婚することにした」
耳障りな高音が並ぶと、演奏に聞こえることがある。ライナス達を乱打する音の群れが、まさにそうであった。
演奏している本人に言わせると、
「独身を捨てた哀れな友人に捧げる最高傑作」
らしいのだが、ライナス達にはどの辺りが最高傑作の根拠なのか、全く理解することができなかった。唯一、理解せずとも気に入っているのは、戦女神の長女殿である。
第六方面軍司令部となった旧共和国大統領府の地下にある、高級バーを借り切っているのは、ライナス達一一人であった。友人を祝うために彼らが集ったのは、宇宙暦四二三年が七月へと突入してから数日経った、ある日の午後のことだ。
最前線で指揮を執っているリックや国内を巡回している者達も、都合をつけて惑星ドリュアスへと帰還していた。もっとも、彼らはライナスに報告するため定期的に帰還しているので、その日程を調整しただけに過ぎない。
「しかし、結婚とは思い切ったことをしたものだ」
片耳を押さえながら怒鳴るように言ったのは若白髪の青年である。自称アーティストがかき鳴らすギターの音色を少しでも遮ろうとしているのだが、店そのものが揺れているのではないかと錯覚するほどの音量の前では、焼け石に水どころか恒星に水滴である。
「まったく。良く決断したもんです」
続いて感想を述べたメルヴィンなど、両耳を押さえてしまっている。これでは話し声もあまり聞き取れないのだが、彼には読唇術の心得があり、その特技を最大限に生かしていた。才能の無駄遣い、ともいえるのだが。
「今しかない、と思ってな」
応じるウォルターも聞き取り辛く話し辛い状況に辟易している。とはいえ、この激しい旋律がジュイルの最上の感情表現であることを彼は知っていたから、気の済むまで演奏させることにしていた。
会話を試みているのは、この三人だけであった。他の面々はというと、祝いの言葉をウォルターに伝えた後、思い思いの姿勢で過ごしている。いや、思い思いに過ごさざるをえないのだ。ギタリストの独奏会が始まってしまったのだから。
ジュイルは一心不乱にギターをかき鳴らしているので、話ができるわけもない。耳が痛くなる曲を心から楽しんでいるのは、当の本人とリネットだけである。ライナスはリネットの隣で楽しもうとして失敗し、顔を引きつらせながらただ耐えている。
耐えることにすら失敗したのはリックである。音響機器を密かに操作して音量を下げようとしたのだが、操作盤にはご丁寧にもプロテクトがかかっていて、パスワードを入力しなければならなかった。当然、彼にパスワードはわからない。結局、両手で耳を塞ぎながら、ジュイルへの仕返しを考えることしかできなかった。
忍耐の限界に挑戦しているのは、アイオンも同じであった。四家族の嫡流でありながら苦労性なこの青年は、何か悟ったような顔で座り込んでいるだけである。諦めたのか、それとも洗脳されてしまったのか。本人にもわからないであろう。
苦悩する男性陣とは対照的に、リネットを除く女性陣は落ち着いて酒を酌み交わしている。それというのも、マーガレットが前もって準備していた方法で、ジュイルの騒々しい音楽を遮断することに成功していたのだ。その方法とは、原始的ではあるが非常に効果的なものであった。その代わり、会話もままならないという副作用をもたらす。耳栓である。
結果、プリシラ、テレサ、マーガレットの三人は談笑することもなく、ただただ杯を重ねるだけであった。時折、三人ともが思いつめたような表情とともにグラスを傾けているのは、結婚という言葉から焦りを感じてしまっているからだろうか。
「それで、決断に至った決定的な出来事でもあったのか」
「単刀直入に、子供ができたのか、と聞けばいいのに」
怒鳴り声半歩手前のハーヴェイの疑問を、メルヴィンが言い換える。巨漢の青年は残念そうに首を横に振った。
「子供はまだだ。それよりも、俺達の年齢が問題でな」
「まだ二五だろう。そこまで焦る年齢でもないと思うが」
「彼女はもうすぐ三〇になる」
ハーヴェイとメルヴィンは納得した。二九歳と三〇歳。僅かに一年しか違わないが、心理的な影響は非常に大きい。これは二〇代から三〇代へと移り変わる時だけではない。区切りの数字を迎える度に強く感じるものであろう。
「年上かあ。……まあ、似合っていると思いますよ、うん」
「そうだな。しっかりした配偶者の方が良いだろうな。軍人には」
頷きあった二人を眺めつつ、ウォルターが口を開く。
「二人とも、良い相手がいたら繋ぎ止めておけよ。特にメルヴィン。あまりプリシラを困らせるな」
「そうは言われても、女の子に声をかけるのは俺の天命だし」
女性を篭絡する最大の武器である笑顔を浮かべ、メルヴィンはその忠告を受け入れないことを宣言する。
「随分安っぽい天命だ」
「まったくだ」
皮肉たっぷりに応じたハーヴェイに、同調するウォルター。メルヴィンがどう抗弁しようかと考え込んでいる間に、若白髪の青年が無視できぬ一声を発した。
「それで、一番初めに結婚の報告をする先が、なぜライナスとリネットだったんだ。まさか、二人に決断を迫るためか？」
唇の動きを読み内容を理解した瞬間、メルヴィンは驚きのあまり耳を塞いでいた手の力を緩めてしまった。僅かな隙間をすり抜けてくる爆音が一段と強くなり、慌てて強く耳を塞ぎ直す。
「そこまで深読みしないでくれ」
苦笑を覗かせ、ウォルターは否定した。正直、彼にはそのようなことまで考える余裕はなかったのだ。友人達にどう報告すれば良いものか、それだけで頭が一杯だったのである。
「……幸せになってもらいたいのは事実だが、俺の結婚が影響するとも思えんよ。最初に話したのがライナスとリネットだったのは、ただの巡り合わせさ」
あくまでも偶然であることを強調するウォルターに対し、ハーヴェイは軽く頷くことで了承の意を示す。頷きはしたものの、どこか釈然としない様子である。彼の唇が言葉を発さぬ程度に動いていることを、メルヴィンは見逃さなかった。
ジュイルの演奏がようやく落ち着いてきたようで、声量を落としても話せるようになりつつある。ただ、怒鳴り声が大声で済む程度であったし、一時的なものでもあった。クライマックスの前にリズムを落ち着けるのは、良く使われる曲の形式の一つである。
案の定、馴れ初めをメルヴィンが尋ねた途端、絃を震動させる速度が急上昇し、室内は再び高音乱舞する芸術の戦場へと早変わりを遂げてしまった。それでも、演奏者当人を除く男性陣は皆一様に安堵した。最高潮を迎えるということは、曲が終わりに差し掛かっていることを意味する。拷問にも匹敵する時間から、ようやく解放されるのである。
ただ、終末が見えてきたとはいえ、これまで以上に凄まじい音楽が室内を飛び交うことは疑いようがない。しっとりと歌い上げる歌謡曲ではないのだから、一番盛り上がる箇所はまた一段と激しくギターが唸るのである。
バーの扉が勢い良く開かれ、従卒の少女が飛び込んできたのは、まさにクライマックスを迎える寸前であった。閑静な住宅街からライブハウスに飛び込んだようなもので、その落差の大きさに、ヴァネッサはしばし立ち尽くしていた。
少女が呆然としていた時間はそう長くはなかった。大きく首を振って意識をはっきりとさせると、一同に重大な要件を告げたのである。
反応はなかった。爆音にかき消され、声が誰にも届かなかったのだ。
ハーヴェイ、メルヴィン、ウォルターが目線を向けたものの、他の者はヴァネッサが来たことにも気づいていない。ギタリストは自分の世界に入り込んでしまっているから当然であるし、唯一真っ当な聴衆である薄紅色の髪の女性も同様である。ライナス、リック、アイオンは半ば放心状態であった。物理的に音を遮断している女性陣も少女の存在を感知していない。
そのような有様であったから、従卒の少女が身振り手振りまで交えて必死に伝えようとしているにも関わらず、一向に事態は進展しなかった。さすがに業を煮やしたヴァネッサは音響機器の傍らまで歩み寄ると、マイクの電源と音量を確認して、大きく息を吸い込んだ。
「はい、注目！」
室内に響いた乱入者の一言で、バーはようやく、その落ち着いた雰囲気を取り戻すことができた。
「これから良いところだったのに」
演奏者当人よりも残念そうなのは、リネットである。その一方で自称アーティスト本人は、
「この偶発的中断も芸術の一つの形だ」
などとのたまい、何故か満足そうであった。
「技術の粋を尽くした演奏を堪能するのはまた今度にして、今はニュース見てください！」
マイクを叩きつけるように置くと、ヴァネッサは店内の片隅に設置されている端末を操作し、巨大なホログラム・スクリーンを表示させた。
スクリーンが出現した途端、ニュースキャスターの明晰な声が流れ始める。放心状態にあったライナス達も我に返り、女性陣も耳栓を外す。そして、ニュースの内容を理解するにつれ、彼らの視線は一点に集まっていった。
「つい先程、喜ばしい報せが舞い込みました。ケネス・リッカード防衛委員長とヘレナ・リーさんの結婚が発表されたのです」
音楽と酒のもたらした陶酔が急速に冷めていく。困惑が熱気に取って代わり、ささやかな楽園は現実へと引き戻された。ライナス達は腰まで伸びた長い黒髪が力なく揺れるのを、ただ見守ることしかできなかった。
ケネス・リッカードが結婚するだけならば、ここまで劇的な変化は生まなかったであろう。彼ら一一人に大きな衝撃を与えたのは、同時に上がった女性の名であった。
ヘレナ・リー。リー家の長女。つまり、テレサ・リーの姉である。
宇宙暦四二三年の危うい均衡は、この慶事をきっかけに崩れ去ることになる。半年にも渡る休息の時が終わり、銀河を戦乱の雲が覆い始めていた。
一定の間隔で人差し指が画面に触れる。その動きにあわせて、スクリーンに映る画像と文字が変わっていく。スクリーンの忙しない変化は、惑星連合の最新ニュースを告げる画面で止まった。
ケネス・リッカードとヘレナ・リーの結婚。惑星連合全土を揺るがす一報は、通商連盟国内でも大きく取り上げられていた。惑星連合国内のニュースと違うのは、その一報に刺激的な見出しが付け加えられていることであろう。
新たな局面を迎えた惑星連合の権力闘争。リー家と手を結んだリッカードの目的とは。
四家族、ついに崩壊か。リー家とヘルトリング家の確執に迫る。
惑星連合新時代の始まり。連盟外交部会は歓迎の意を表明。
マスメディアによって伝え方は様々であったが、ある一点において見解が一致していた。全てのマスメディアが、リッカードの結婚は政略的な効果を狙ったものである、との分析を示していたのである。
男性が同業者の記事を流し読みにしていると、怪しげな錠剤の詰まった容器で満載の袋を提げた青年が、とても嬉しそうに近づいてきた。
「先輩、見てくださいよ、このサプリメント。日々の生活に欠かせない栄養素が、これ一錠で補えるんですって。これさえあれば、この不規則な生活でも、健康の心配をすることなく――」
「エリアーデ。お前さんは幸運を招く壺とかを買わされる性格だろ」
「え、どうしてですか？」
不思議そうな顔をしている後輩に説明することなく、男性は野菜たっぷりのサンドイッチをコーヒーで強引に流し込んだ。三〇代も半ばに差し掛かったその男性はケネス・リッカードの結婚に関する情報を集めるため、幾つものホログラム・スクリーンを浮かび上がらせていた。
「ああ、リッカード委員長の結婚ですか。しかし、驚きましたよね。本当に突然でしたもの」
スクリーンを覗き込んだ青年が感想を口にする。先程の疑問はもうどこかに消えてしまったようだ。
「……劇的な効果を狙ったんだろ。何の予兆もなく、周囲への説明もない。自らの婚姻すら、政争の道具にするわけだ」
「政略結婚ですか。可哀想ですね。相手を選べないなんて」
「名家に生まれた人間なんて、そんなものさ」
ケネス・リッカードとヘレナ・リーの結婚が発表されてから二日後の、宇宙暦四二三年七月八日。星の翼事件の詳細を追いかけるジャーナリスト、ダグレイ・スティッケルとジョルジュ・エリアーデの姿は、通商連盟領アッシュール星系第一六惑星ニネヴェⅢにあった。
惑星連合国内での調査に限界を感じていたスティッケルは、別の方角から真相に迫ろうと試行錯誤を繰り返した。そして、彼の直感が告げるまま、かつて星の翼の面々と同じ学び舎で過ごした青年の行方を追い、通商連盟へと入国したのである。
スティッケルとエリアーデの追う青年の名は、クリスチャン・リンディ。士官学校時代、『エッダ』の一員とまで称されていた英才であり、その死が偽装された疑いのある、エルウィン・リーとも親しくしていた青年であった。
エリート街道をひたすらに進んでいた青年が突如士官学校を退学し、通商連盟へと移住したのは、宇宙暦四一七年の一月頃であったようだ。星の翼事件のほぼ一年前の出来事である。
「ところで、話は変わりますけど。本当にヨルバ星系にいるんですかね、彼。これで外れだったら、三二回目の誤情報ですよ」
「その三〇何回目の偽情報をこれまで手に入れてきたのは、エリアーデ、お前さんじゃないのか」
「いや、そうですけど。だって、この国の人達って、星系ごとに性格は違うし、訛りは酷いし、嘘か本当か不確かな情報ばかりで」
その不確かな情報から真実を突き止めるのが、ジャーナリストの仕事だろうが。
スティッケルは喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。似たような指摘はエリアーデと取材をするようになってから、もう何度も言い聞かせている。これ以上は口で言っても理解できるものではないだろう。後は、経験を積んで、彼自身が真実を見極める眼を養うしかなかった。
リンディの退学と通商連盟への移住。彼に関する調査を行った結果、リンディは父親とともに通商連盟へと移住したことが確認された。母親は既に亡く、連絡を取っていた親類も存在しなかった。
二人の移住は、まるで夜逃げのようであった。スティッケルはリンディの実家があった惑星アドニスの片田舎で聞き込みを行い。幾つかの証言を得ることができた。幾人かの人々が、逃げるようにして家を後にする親子の姿を目撃していたのである。
退学直後の他国への移住。それも、逃げるように。記者でなくとも、事件の臭いを感じてしまう。
スティッケルは慎重に捜査を続け、リンディやその父に関わりのあった人々が、何か大きな事件を引き起こしていないか、また、事件に巻き込まれていないか、などを確認していった。二人の周囲で何らかの事件が発生していれば、父子が隣国へと逃れたのはその事件と関係があるためだと推測できる。
だが、二人と親交のあった人物が事件に関わっている事実を、スティッケルは見つけられなかったのである。ただ一件、星の翼事件を除いて。
星の翼事件とその一年前に起きたリンディ父子の移住。二つの事象の間には何らかの関連性がある。少なくとも、そう考えるに足るだけの事実が揃っている。
ようやく、星の翼事件の真相に迫る糸口を見つけたのである。これを逃すわけにはいかなかった。こうして、スティッケルは通商連盟へと赴くことを決断したのである。
「まあ、間違いであったとしても、とにかく調べてみるしかないだろう。急がないと惑星連合に帰れなくなるかもしれんし」
「どういうことですか？」
「……リッカード委員長の結婚。あれが戦争の引き金になる」
エリアーデは何度も瞬きを繰り返すことで驚きを表現した。それは同時に、彼が事態の重要性を理解していないことも示している。
「……リッカードとリー家が結びつくとどうなる。残った四家族はリー家を裏切り者と罵り、権勢を強化したリッカード派はこの機を逃すまいと、残存する四家族を潰しにかかる。最悪、共和国に続いて内戦が勃発する」
「そ、それは一大事じゃないですか！」
「それだけじゃない」
スティッケルの声は淡々としていて、内容の重さを感じさせないものではあった。それでも、さすがのエリアーデも事の重大さをようやく理解しつつある。
「国内が乱れれば、必ず外敵が動き出す。旧共和国の残党を筆頭に、自由連邦と共同体が軍を派遣してくる可能性だってあるんだ。……落ち着いていられなくなったか？」
「こ、国境が封鎖されないうちに帰りますか？」
スティッケルはすぐには答えず、残り半分となっていたサンドイッチを口の中に放り込んだ。思い切り噛み砕き、慌てふためく後輩に意地の悪い笑顔を浮かべる。
「取材を途中で投げ出すような奴は、記者失格だな」
「そ、そんなあ」
情けない哀願の声を聞き流しつつ、スティッケルは調査を急ぐと同時に、惑星連合へと帰還する時期を検討することにした。口ではからかいながらも、彼は後輩を危険に晒すような真似をしたくなかったのだ。通商連盟と惑星連合間がいつ緊迫した状況になっても対応できるよう、帰還路は確保しておくべきであった。
食事をしながら今後の予定について話し合っている二人の記者を、観察する人間がいる。スティッケルとエリアーデのいるカフェテラスの向かい側、コーヒーショップの二階にある席から、観察者達は二人の記者に気づかれぬように監視を続けていた。
「寄り道良くない」
呟くように小さな声で忠告したのは、黒髪を三つ編みにしているが、一向に女性の色気や清潔さを感じさせない女性である。彼女が非難めいた目線を向けているのは、隣に座る人形のように美しい少女であった。
「あたしの勘を信じろって。何年こんな仕事をしていると思っているんだ」
低く暗い声の女性に対し、少女の方は明るく乱暴であった。鮮やかな金のメッシュが目に映える西洋人形のような少女で、その外見と言葉遣いの落差が非常に大きい。
「興味ない」
「……他人の過去を詮索しないのは良いことだ」
期待していた返答とは違い、少女は落胆しているようであった。それでもすぐに立ち直り、二人の記者の監視を再開する。
「ま、あの爺さんは待たせておけばいいさ。それよりも、あの記者達を誘い出したリンディの思惑が気になる」
「邪魔者を消す」
「……だったら、あの記者達を守らなきゃな」
緩慢に頷く女性とにこやかに微笑む少女。どうにか姉妹とごまかせそうな女性達に見守られているとも知らず、二人の記者はヨルバ星系へと旅立とうとしていた。
ケネス・リッカードとヘレナ・リーの結婚は、リッカードの台頭、ワインシュタイン家の没落とともに、四家族体制の終末を告げる一連の事態の一つであった。ただし、決定的という意味では他の二つを遥かに上回る。約四〇〇年もの間、惑星連合を牛耳ってきた権力層の一角が、新興勢力に切り崩されたことを意味していたのだ。
これまで、四家族一門の結婚は厳しく制限されていた。四家族に連なる者か、もしくは四家族に反抗的でない人間だけが、惑星連合上層部に加わることを許されていたのだ。新たに加わる人間を慎重に選別することにより、四家族は確固たる支配体制を作り上げていたのである。
だが、決して破ってはならぬ禁忌は、音を立てて引き裂かれた。それも、内部から。ワインシュタイン家の没落によって生じた空席を埋める間もなく、四家族そのものが分裂を始めたのだ。
ヘルトリング家とマクドゥーガル家は、ケネス・リッカードとヘレナ・リーの結婚を、リー家の裏切りと捉えた。よりにもよって、敵対する勢力のリーダーであり象徴である男に、娘を嫁がせたのである。さらに、両家への相談もなければ事前連絡もなかったのだ。禁忌だけでなく信用をも破ったのである。反故にされた両家が激怒するのも当然のことであった。
特に、ヘルトリング家からの非難の声は大きかった。元々、リー家とヘルトリング家は宇宙軍という自らの支持基盤を巡り、四家族内でも対立関係にあったのである。
惑星連合軍のうち、宇宙軍の大半はリー家とヘルトリング家の支配下にある。近年はリッカードやライナス達星の翼の活躍もあり、その影響力は衰えつつあるものの、いまだ両家の存在は宇宙軍の中には深く根付いている。
宇宙軍を二分する両家の間に競争が生まれぬわけがなかった。それでも、その対立は四家族内での競争を促進することとなり、四家族全体の発展に大きく寄与していたのである。対立はあくまでも四家族という枠組みの中に止まり、外部勢力に対しては一致団結して向かっていたのだ。
同様の事実は大気圏内軍でも確認できた。リー家とヘルトリング家が、マクドゥーガル家とワインシュタイン家に変わっただけである。
四〇〇年もの長きに渡る四家族の繁栄を支えてきたのは、この内部競争による新陳代謝と揺るがぬ相互信頼関係にあった。それが、新興勢力の台頭とともに揺らぎ、四家族を支えてきた一族の一つが消滅の危機に瀕したことで震え、この度の結婚によって倒壊したのである。
男性がため息とともに室内を歩き回っていた。老人と呼ばれる域に達しつつあるその男性は、抑えられた照明と同じように暗く沈み、その表情からは憤りと戸惑いとが垣間見える。
そんな初老の男性の動作を見つめるのは、夜をそのまま切り取ってきたような黒髪を頭の後ろで結っている女性だ。儚げな所作の中にも芯を感じさせる人で、深窓の令嬢という表現が似合う。ソファーに深く腰掛け、何も言わず、ただ男性を眺めている。
二人のいる室内を強く明るい光で照らし出せば、さぞ豪勢で美しく輝くであろう。それほどまでに贅を尽くした調度品が溢れている。だが、照明から投じられる灯りは最小限に留められており、本来の華麗で豪奢な姿は鳴りを潜めていた。
どれほど室内を歩き続けていただろうか。男性は女性の向かいの席に座ると、搾り出すように話し始めた。
「まったく、勝手な娘だ」
第一声だけは感情を抑制することに成功した。しかし、それも長くは続かなかった。
「何の相談もなしにあのようなことを決めるとは。それも、よりによって、相手があの男だ！」
言葉が途切れたのは詰まったからではない。感情が激し、それ以上続けることができなかったのだ。
「これは裏切りだ。他家への裏切りだけではない。リー家一門に属する全ての者に対しての裏切りだ！ いや、それだけではない。それだけではないことを、お前自身が一番良くわかっているだろう。お前は祖先すら裏切った。始祖以来続く、栄光あるリー家の歴史を踏みにじった！ 家名に泥を塗ったのだ！」
息を整えた後に男性が続けた言葉は、叩きつけるように強く、鼓膜を破らんばかりに大きかった。それを受け止める女性は対照的に冷ややかな態度を崩さない。
「リー家の存続を真に望むのならば、彼に味方するしかありません」
やっと口を開いた女性の声は、その眼差しと同じように冷たい。その声の調子によって、男性の激していた心が冷却されていく。
「……リッカードに与せよというのか」
「四家族はもう終わりです。このまま沈み行く舟に固執して、ともに海底へと没する必要もありません。私達は新時代を生き延びるべきなのです」
「その程度の初歩的なこと、十分に承知している」
親子の会話は決して温かみのあるものとはいえなかった。まるで部屋中に冷気が充満したかのようだ。
「だが、テレサがいるではないか。星の翼は、もはやリッカード派の一部だ。当人達にその気がなくとも、世間はそう受け止めている。たとえ我らが敗北しようとも、リー家は生き残る。誇りを捨ててまで、リッカードに媚びへつらう必要などない！」
「あの子が家を継ぐとでも思っていらっしゃるの？ 実の子すら見捨てねばならぬ名家など、あの子には必要ない。リー家の名は、足枷にすらならない」
これまでの雰囲気が冷気であったならば、女性の言葉が終わった瞬間のそれは、永久凍土とでも評するべきだろうか。
「……まさか、話したのか」
「いいえ。話していません。あの子には、まだ、重過ぎる」
男性の顔は青ざめていた。思い出したくない過去の過ちを突きつけられ、男性の思考は止まった。彼が新たな言葉を発するまで、一分以上の沈黙が必要であった。
「私は見捨ててなどいない！ 私は、私は――」
「結果が全てですわ、お父様。リー家を、四家族を守るために、エルウィンとエセルを犠牲に捧げた。それが事実」
男性がやっとの思いで発した弁明も、彼の娘には通用しなかった。
「私は守ろうと手を尽くした。出来る限りのことをしたのだ。……そもそも、二人を殺したのは、あの青年だろう！」
「お父様は卑劣です」
「なんだと！？」
男性は憤りを感じて立ち上がった。いや、本人はそう思い込んでいたが、振り返りたくない過去を暴かれつつあることに脅えた結果、反射的に立ち上がってしまっただけだ。
対する女性は未だ冷静な態度を崩さず、男性の目をじっと見つめて話し続ける。
「卑劣だ、と申し上げたのです。本当に我が子を守ろうとしたならば、体を張ってでも止めていたでしょう。それだけじゃない。もっと早くエルウィンと向き合っていれば、あの事件は防げた。でも、お父様はそうしなかった。申し訳程度に、命が狙われていることを教えただけ。……我が子の命よりも、一族の名誉を選んだ。その瞬間、お父様は資格を失った。誰かを責める資格を、永久に失ったのです」
無慈悲なまでに冷酷な一撃一撃が心を深く抉っていく。必死で隠していた傷跡が割け、狂乱を導く後悔が溢れ出す。
「……それに、あそこで何があったかは、ご存知なのでしょう？ 事件のレポートは読まれたはず。真実は既に明らかです。……もっとも、あの事件の詳細に関するデータは全て抹消されていますけど」
「あれは、捏造だ。そうに決まっている！」
最後の虚勢であった。今にも倒れそうな程に顔色は優れないままだ。
女性は音もなく立ち上がった。ゆっくりと、そして静かに、歩き出す。
「……そう思いたいならば、思っていてください。実の息子や娘の肉声を、信じられないのなら」
女性は部屋を後にした。ソファーにへたり込み、大きく肩を落とす父親を部屋に残して。
父親への不毛な弾劾を終え、女性は自らの部屋へと戻った。各々の家具は高級なものだが、どことなく生活感の薄い部屋である。手入れが届いていないわけではない。人の息吹が感じられないのだ。
女性はテーブルの上に置かれていた写真を手に取った。電子情報としてではなく、印刷されたものだ。
「……大丈夫。うまくやるわ」
写真の中にはまだ幼い兄弟の笑顔がある。
「平気よ。体がどれだけ汚されようと、私は己を見失うことはないから」
長女、長男、次女、三女。四人ともが美しい黒髪を持つ。
「歴史の闇に潜む、悪意の尻尾を掴んでみせる。あなた達のように戦うことはできないけれど、私には私の戦い方がある」
死した人間に物事を伝える術などない。それでも、人は故人に語りかける。それは過ちへの悔いだろうか、それとも、決意の表明だろうか。
「……四〇〇年もの間、私達は翻弄されてきた。本当なら、人類は今も、大繁栄時代を謳歌していたはずなのに」
傷一つない美しい手が写真をなぞっていく。もう、この世のどこにも存在しない、二人の顔に指が触れる。何故か、女性は指先が熱くなったように感じた。
「人を鎖から解放する。そして、人は天翔ける翼を手に入れる」
星の翼。青年達に与えられた異名は、平和の時にこそ、輝くはずだ。そう、女性は信じていた。
「歪められた社会の犠牲者を、これ以上出さないためにも」
写真はテーブルの中央に戻された。記録の中にだけ残る、微笑みは変わらない。
「抹消された記憶の欠片を見つけ出す。隠蔽された過去を暴く」
女性は初めて表情を和らげた。それは傷ついた者の笑みであったが、悲壮感はない。痛みを受け止めて、自らの進むべき道を見つけた者だけが持つことを許される、切ない微笑。
「私はきっと、最後まで見ることはできない。それでも、大好きなあの子達が、笑顔で暮らせる世の中のために」
心の整理は終わった。この後、彼女が自室で独白することはなかった。妻は夫の待つ場所へと旅立ったのである。
青き巨艦はアドニス星系への長距離跳躍を控え、艦内の最終調整を行っていた。戦艦《ザグレウス》の行く所、大艦隊が付き従うのが常であったが、今現在、周囲には護衛の艦隊が一〇〇隻程存在しているだけである。国内の移動にはさほど多くの艦隊が必要ないためではあったが、どこか物足りなさを感じる者も多いだろう。
戦艦《ザグレウス》はその所有者と少数の随員を護送するため、首都星系アドニス星系へと向かう途上であった。ライナス・ウェストール、リネット・サトクリフ、アイオン・ヘルトリング、テレサ・リー、ハーヴェイ・マクラクラン。及び、彼らの随員。今をときめく星の翼のうち、約半数が任地を一時的に離れ、首都への帰還の途中である。
彼ら五名はケネス・リッカードとヘレナ・リーの結婚披露宴に参加するため、七月一二日にファビヌス星系を出立していた。
テレサが実の姉の結婚式に出席するのは当然のこと、ハーヴェイにもマクラクラン家の代表として参加する義務がある。アイオンも四家族の一つ、ヘルトリング家の直系として参加しなければならない。
一方で、ライナスとリネットは別の理由でアドニス星系へと赴かねばならなかった。ケネス・リッカードから直々の招待を受けたのだ。防衛委員長直々の招待を断ることなど、軍人たる二人に出来ようはずもない。
ただし、ライナスとリネットが任地を離れるということは、他の三名のそれとは違い、非常に大きな意味を持つ。小康状態にあるとはいえ、第六方面軍や独立機動艦隊の展開している旧共和国領では、自由連邦や共同体との戦闘が続いているのだ。その司令官たる二人が前線から離れるのは、国防上問題になりかねない。二人がいない間に本格的な侵攻があれば、責任問題にも発展しかねないのだ。
「ライナス、ライナス」
「なんだい、リネット」
戦艦《ザグレウス》の艦橋は二人の大将を迎えていた。にもかかわらず、艦橋の空気は緊張感とは程遠い。
「この艦、《ブリトマルティス》と同じ型なんだよね？」
「そうだけど」
「そのわりには、座り心地良くないんだよね」
大将が二人とはいえ、そのうちの一人がリネットであれば、地位による威圧感はなくなる。そのうえ、普段のライナスは人を圧倒するような雰囲気の持ち主ではない。戦地であるならばともかく、さしたる危険もない国内航路では、艦橋の要員達は緊張する方が難しかった。
「そりゃ、その椅子は備え付けの物じゃないし」
リネットは用意された予備の指揮椅子に座っている。やはり予備であるためか、戦女神の長女殿はお気に召さなかったようだ。押す、突付く、撫でる、擦る、と一通り椅子を調べていたリネットだが、やがて、画期的な解決策を思いついたようである。
「交換しない？」
「……さすがに、まずいんじゃないかな」
規則上、ライナスはリネットの要望に応えることができなかった。この艦はライナスに与えられたものであり、艦橋の最も高いところに位置する指揮椅子に座る権利を持つのは、彼だけである。人の上に立つ者である以上、規則は守らなければならなかった。
ライナスとリネットが不在の間、旧共和国領方面の指揮は二人の人物が執ることになる。独立機動艦隊副司令官リック・ブライトンと、第六方面軍副司令官リオン・オクムラの両中将だ。
二人のうち、リックの力量に関してライナスは心配していない。士官学校時代からの古い付き合いで、彼の実力は良く理解している。これまでの実績も確かで、将兵からの信頼度も高い。
不安があるとすればリオンである。まだ軍人としてのキャリアも浅く、本来は留守を任せられるような状況ではないのだ。彼女が副司令官という地位にあるのは、元共和国大統領でかつての英雄の娘という履歴と、将来を見込んでの抜擢とが組み合わさった結果である。あくまでも、ライナスあっての副司令官という役職なのだ。
それでも、名目上はリオンに留守を任せるしかなかった。第六方面軍という組織において、リオンはライナスに次ぐ第二位の序列である。彼女以外の人間が留守を任されては、外部への説明ができない。
ライナスはメルヴィンら旧知の友や、参謀長に指名したヘイエダール中将、共同体方面の前線指揮を担っているベティーナ・マクドゥーガル中将らに、リオンを補佐するように要請しておいた。リオンを支える人間は揃っている。平時ならば、リオンはライナスの代理を難なくこなすことができるであろう。
しかし、ライナスの心から霧が晴れることはなかった。今は平時ではないのだ。共同体や自由連邦の本格的な侵攻が始まる可能性は捨て切れない。その時に必要なのは、敵の侵攻を受け止め、ライナスやリネットが帰還するまで時間を稼ぐことのできる人間だ。リックならばその任に耐えうる。だが、経験の無いリオンではまだ荷が重い。
そして、ライナスとリネットが不在である以上、自由連邦や共同体が侵攻を開始する可能性は限りなく高くなる。最高司令官二人が最前線から遠く離れた首都星系にいるのだ。両国にとっては、膠着した戦局を打開するまたとない好機である。
ここまで思考を進めた時、ライナスの頭を一つの閃きが過ぎった。
これは誘いだろうか。自由連邦と共同体を、惑星連合へと本格的に侵攻させるための誘惑なのだろうか。
リッカード本人からの招待。それがライナスの心に引っ掛かって離れない。リッカードほどに軍略の才に富む人間が、ライナスとリネットを首都へと呼ぶことの危険性に気づかないはずがない。彼ら二人に重きを置いていたとしても、どちらか一人は前線に残すよう、指示を下すはずであった。
……いや、まだ、弱い。
ライナスの思考はさらに進む。ライナスとリネットを招待したことが自由連邦と共同体への誘いだったと仮定しても、それだけでは両国による侵攻の決定打とはならないであろう。両国の軍部や首脳部は罠の存在を疑うはずだ。これまでにライナスやリネットは数々の奇策を披露してきた。過去の経験から学ぶのは自分達だけではない。敵対する者達も成長しているのだ。
もし、これが本当に、両国からの侵攻を促がす、誘惑だったとするならば……。
もう一つ、何か決定的な事態が起きる。確信にも似た考えが不意に、ライナスの頭に浮かんだ。
罠の存在を疑った後、選択肢は二つとなる。確証が持てるまで調査するか、不安に駆られながらも前進するか、だ。多くの場合は前者を選択するであろう。自由連邦も共同体も、ライナスやリネットには何度も煮え湯を飲まされている。慎重に行動するはずだ。
ただ、そう簡単には誘いに乗らない軍人も、戦わざるをえない時がある。より上位の者に後押しされた場合である。理不尽な命令などもその一つであるが、ライナスが危惧するのは、民意が本格的な開戦へと傾いた場合であった。
自由連邦や共同体の国民が、「惑星連合討つべし！」と声高に叫べば、軍はそれに従わざるをえなくなる。まして、最も手強い相手は当面の戦場からは遠く離れた地にいるのだ。民意に後押しされれば、両国は本格的な侵攻を始めるであろう。
「向こうの結婚式に出たかったなあ」
隣から聞こえてきたため息混じりの呟きに、ライナスの思考は遮られた。戦女神の長女殿は椅子の上で膝を抱え、何やら不満そうであった。
「かといって、俺達のために式を遅らせてもらうわけにもいかないしね」
「そうなんだけど……」
ライナス達には困ったことに、ウォルター・パージェスの結婚式と、ケネス・リッカードの結婚式とが重なってしまっていたのだ。正確には二日ほど時差があったのだが、ウォルターの結婚式は旧共和国領のファビヌス星系で、リッカードの結婚式は首都星系アドニス星系で行われるのだ。到底、二日で移動できるような距離ではなかったから、友人達はどちらか片方の式を選ぶしかなかったのである。
それにしても、このようなことは稀であった。一般的には、結婚式を執り行う前に親族や友人、同僚、お世話になった人間に結婚することを報告し、式の日取りを伝えて招待するものである。
ところが、この二つの結婚式は、どちらも直前になって発表されたのだ。ケネス・リッカードとヘレナ・リーの結婚が直前まで伏せられていたのは、多分に政略的な意味合いを含んでのものであろう。
一方で、ウォルター・パージェスの結婚式の通達が遅れたのは、なんとも微笑ましい理由によるものであった。新郎が照れてしまい、友人達に言い出せなかったのだ。本人に言わせれば、ライナスやリネットの前に立つにも大変な勇気が必要であったらしい。
こうして、二つの慶事の日程が重なってしまったのである。予期せぬ事態であったとはいえ、もっと早く言っておけば良かった、とウォルターは後悔しきりであった。
「お似合いだったよねえ、あの二人」
「そうだな。幸せになって欲しいな」
相槌を打ちながら、ライナスはキュクロプス星系で会った花嫁を思い返す。ウォルターはキュクロプス星系までライナス達に同行していた。同星系で、未来のパージェス夫人を出迎えるためである。
首都星系アドニス星系からファビヌス星系へと向かっていたその女性の名は、ジョディー・オリオールという。取り立てて美人というわけではないが、包容力の大きさを感じさせる女性で、つい先日まで、軍の病院に勤める看護婦であった。
「ちゃんと挨拶したかったなあ」
「戻ったら幾らでもできるよ」
頷きはしたものの、やはり薄紅色の髪の女性は浮かない顔である。アドニス星系へと向かう途上であったこともあり、ライナス達は未来のパージェス夫人と簡単な挨拶を交わすことしかできなかったのだ。士官学校時代からの友人と結婚する女性である。落ち着いて話をしたかったのは当然のことだ
突然、リネットが指を鳴らした。正確には鳴らそうと試みただけで音は出なかったのだが、行為そのものの成功失敗は彼女には関係なかった。満面の笑みをライナスに向ける。
「ライナス、ライナス」
「ん？」
「私達のはいつにする？」
常人ならば言葉の省略されていたリネットの言葉の真意を、前後の状況も踏まえて、理解することができたであろう。だが、リネットにとっては非常に残念なことに、ライナスは再び思考の海に埋没しかけており、その意味を咄嗟に理解できなかったのである。
「いつにするって、何を？」
素直に疑問を発してしまったライナスを、リネットはしばし無言で見つめていたが、やがて、頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。
その後、しばらくの間、リネットは大いに不貞腐れ、ライナスは必死にご機嫌を取らねばならなかったのである。
Ver 1.0 2007.01.30 ～ 2007.02.06
Ver 1.0 2007.03.06